フレッド・カーノー劇団
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「チャールズ・チャップリン」の記事における「フレッド・カーノー劇団」の解説
チャップリンはすぐに新しい劇団で仕事を見つけ、1906年3月にスケッチ・コメディー『修繕』の巡業にシドニーとともに参加した。同年5月にはケイシーズ・コート・サーカスの子供グループに参加し、1907年7月に退団するまで花形コメディアンとして活躍した。しかし、チャップリンは次の仕事先を見つけるのに苦労し、しばらく失業状態となった。この頃にユダヤ人のコメディアンとして一人で舞台に立とうと試みたが、テスト公演をしたのがユダヤ人地区の劇場にもかかわらず、反ユダヤ的なギャグを含む出し物をしたため、観客の野次を浴びて大失敗した。 一方、シドニーは1906年にコメディの名門フレッド・カーノー(英語版)劇団に入り、その花形コメディアンになっていた。1908年2月、シドニーは失業中のチャップリンに仕事を与えるようカーノーに頼み、チャップリンは2週間のテスト出演のチャンスを貰った。カーノーは当初、チャップリンを「青白くて発育の悪い、無愛想な若者」「舞台もろくにできないぐらいの恥ずかしがり屋」と見なしていた。しかし、チャップリンはロンドンのコロシアム劇場(英語版)で行われたテスト出演で、アドリブのギャグで笑いを取ったことが認められ、2月21日にカーノーと契約を交わした。 カーノー劇団でのチャップリンは脇役を演じることから始まり、1909年に主役級を演じるようになった。なかでも酔っ払いがドタバタを巻き起こす『啞鳥』が当たり役だった。1910年4月には新作寸劇『恐れ知らずのジミー』の主役で成功を収め、批評家の注目を集めた。同年10月、チャップリンはカーノー劇団のアメリカ巡業に参加し、批評家から「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評された。最も成功した演目は『イギリス・ミュージックホールの一夜』(『啞鳥』の改題)で、その演技でアメリカでの名声を獲得した。アメリカ巡業は21ヶ月も続き、1912年6月にイギリスに帰国したが、10月には再びアメリカ巡業に参加した。
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