フランスでの再主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:42 UTC 版)
「トゥールのベレンガリウス」の記事における「フランスでの再主張」の解説
ベレンガリウスは自身の信仰を放棄したことへの自責の念と教皇や彼の反対者たちに対する苦い思いに満たされてフランスに戻った。彼の友人は少なくなっていた、というのはジョフロワは死に、彼の後継者はベレンガリウスの敵だったのである。エウセビウス・ブルーノはベレンガリウスから離れつつあった。しかしローマはベレンガリウスにチャンスを与えようという気になっていた。アレクサンデル2世が彼に励ます手紙を送り、同時にこれ以上攻撃しないと表明していたのである。 彼は強固な信念を維持しており、1069年ごろには論文を発表してニコラウス2世やローマでの会議における反論者たちに対する鬱憤を晴らしている。ランフランクスがこれに応え、ベレンガリウスは彼と再会した。ラングルの司教ユーゴーも論文『キリストの肉と血について』(羅:De corpore et sanguine Christi)を書いてベレンガリウスに反対した。名祖であるヴェノーザ司教のベレンガリウスですらこの論争に引き入れられ、彼が二度目に召喚されたときにローマで彼に反対する文章を書いている。 しかしフランスにおいて彼に対する印象は急激に敵対的なものになりつつあったので1076年にポワティエで開かれた教会会議では直接的な暴力沙汰になりかけた。ヒルデブラントはこのころ教皇グレゴリウス7世になっていたが、彼を保護しようとした。具体的には、1078年にベレンガリウスを何度もローマに呼びつけ、彼にトゥールで署名したのと同じような漠然とした定式に同意させることで彼の敵対者を鎮めた。しかしベレンガリウスの敵対者たちはこれに満足せず、三か月後に別の会議で彼に、聖変化を認めるほかには弁解の余地のない詭弁しかないという意味の定式を押し付けた。彼は軽率にもグレゴリウス7世の同情を期待したが、グレゴリウス7世は彼に過ちを認めて異端説の追求をやめるよう彼に命令した。ベレンガリウスの勇気は彼に通じなかった。彼は自分が間違っていたと告白し、教皇による彼を守る手紙とともに自宅に送り返されたが、内心でははらわた煮えくり返っていた。 一たびフランスに戻ると、彼は大胆さを発揮してローマでの会議の議事録に対する彼独自の説明を発表し、自説を撤回したのを取り消した。結果としてボルドーでの教会会議(1080年)の前に別の挑戦を受け、さらに服従することを強いられた。 この後彼は沈黙を保ち、トゥール近郊のサン・コムの島に引退して孤独に禁欲生活を送った。そこで彼は死んだが、信念を変えることはなかった。自分が受けた不当な迫害の元でも神の慈悲を彼は信じていた。
※この「フランスでの再主張」の解説は、「トゥールのベレンガリウス」の解説の一部です。
「フランスでの再主張」を含む「トゥールのベレンガリウス」の記事については、「トゥールのベレンガリウス」の概要を参照ください。
- フランスでの再主張のページへのリンク