フィレオフィッシュの誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 12:01 UTC 版)
「ルー・グルーン」の記事における「フィレオフィッシュの誕生」の解説
1950年代の半ば、シンシナティのレストラン協会の理事を務めていた当時、マクドナルドのレイ・クロックと知り合う。マクドナルドの経営に興味を持ったグルーンは、マクドナルドのフランチャイジーの権利を手に入れた。そして、1959年にシンシナティで初めてとなるマクドナルドの店を開いた。しかし、経営状況は厳しかった。 経営がうまくいかなかった理由の一つとして、地域の宗教上の問題があった。グルーンの店の周囲には、カトリックの信者が多く暮らしており、「肉を食べてはいけない」金曜日になると客足が遠のいていた。また灰の水曜日から復活祭までの約40日間も売上が落ち込んだ。 グルーンは近所にあったビッグボーイのチェーン店が魚のサンドイッチを提供していることを知った。これを、ヒントに独自の魚フライのホットサンドイッチを試行錯誤して作った。 1961年、オヒョウ切り身のフライとタルタルソースを使った最初にフィレオフィッシュを完成させる。そして、マクドナルド本社のレイ・クロックに店での販売許可を得ようと交渉に出向いた。しかしレイ・クロックは「店が魚臭くなる」という理由で当初アイデアを却下した。グルーンが引き下がらずに交渉を続けていると、ある時、クロックは「フラ・バーガー(Hulu Burger)」を売ってみたらどうかと逆提案してきた。 「フラ・バーガー」はパイナップルの上にチーズを載せて焼いたものを挟んだホットサンドイッチだった。グルーンとクロックは、どちらのメニューが売れるか賭けをすることになった。1962年のある金曜日、グルーンの店で「フラ・バーガー」と「フィレオフィッシュ」のどちらが売れるか、テスト販売が行われた。結果、「フラ・バーガー」は売上げ6ドル、「フィレオフィッシュ」は350ドルを売り上げた。 クロックは負けを認めた上で、魚のレシピをメニューに加えることに同意した。ただしフィレオフィッシュに使う魚をオヒョウではなく別のものにすることを求めた。オヒョウは、漁獲高の増減が大きく値段の変動が大きいためアメリカ全土に展開するには不適格であったためである。代わりとなる海産物をテストしたところ、当初ハマグリにパン粉をまぶしたものが適しているという結論がでた。これに「ディープ・シー・ドーリー」と名前をつけてテスト販売したところ調理法が難しく、断念することになった。最終的にタイセイヨウダラをフライにしたものを「フィレオフィッシュ」とし、全米のマクドナルドのメニューに載ることになった。
※この「フィレオフィッシュの誕生」の解説は、「ルー・グルーン」の解説の一部です。
「フィレオフィッシュの誕生」を含む「ルー・グルーン」の記事については、「ルー・グルーン」の概要を参照ください。
- フィレオフィッシュの誕生のページへのリンク