フィッツジェラルド・フォードでのフィッツヒュー・リーの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 00:17 UTC 版)
「ディンウィディ・コートハウスの戦い」の記事における「フィッツジェラルド・フォードでのフィッツヒュー・リーの攻撃」の解説
午前11時頃、フィッツヒュー・リーの前衛旅団であるルーニー・リー師団ルーファス・バリンジャー准将が指揮するノースカロライナ旅団が、フィッツジェラルド・フォードに到着した。そこはチェンバレンズ・ベッドの南側浅瀬であり、ディンウィディ・コートハウスに近い浅瀬だった。このバリンジャー旅団は、北軍ニューヨーク第2騎馬ライフル連隊の下馬した分遣隊から連発式カービン銃で追い返された。やはり連発式カービン銃を装備したオハイオ第6騎兵隊も戦闘に参加した。スミスがクリークの対岸にメイン第1志願騎兵連隊の1個大隊を配置していたが、南軍の大きな部隊によって後退させられた。南軍はクリークを渡って戦うことができた。ノースカロライナ第5騎兵隊が激しい銃火の中を渡河し、同第1騎兵隊が上流で渡河した。同第2騎兵隊はバージニア第13騎兵隊騎馬大隊の背後で渡河した。スミスはメイン第1騎兵隊の残りを道路の1マイル下流から動かし、さらにオハイオ第13騎兵隊を当てた。メイン第1騎兵隊は丘の頂上に、オハイオ第13騎兵隊はその左手にある森の中に配置したスミスの北軍がバージニア第13騎兵隊を押し返したので、その背後のノースカロライナ第2騎兵隊が浅瀬の水深が深い所に追われた。ノースカロライナ第1騎兵隊はニューヨーク第2騎馬ライフル連隊から追われてクリークを戻った。バリンジャーの旅団はクリークを渡って後退するときに大勢の士官を失い、北軍旅団はクリークの東岸に残っていた南軍兵を捕虜にした。 午前11時を回り、ピケットはルーニー・リーの攻撃が失敗して停止したときにフィッツジェラルド・フォードに到着した。ピケットは1マイル北に戻って、ダンス・フォードでその歩兵3個旅団(コース、テリー、ステュアートの旅団)とロッサーの騎兵師団にクリークを渡させることにした。ピケットの作戦はランサムの歩兵2個旅団(ランサム旅団とウィリアム・ヘンリー・ウォレスの旅団)がフィッツヒュー・リーとルーニー・リーと共にフィッツジェラルド・フォードを渡るというものだった。 午後2時半頃、シェリダンがグラントに、自隊が南軍をフィッツジェラルド・フォードで後退させており、これから攻撃するつもりだと報告書を送った。また南軍のロバート・F・ホーク少将の歩兵師団がノースカロライナから動いて来ており、デビンの師団はファイブフォークスで南軍歩兵基地の前線と接触しているとも報告したが、いずれも誤りだった。実際にピケット配下の歩兵部隊はダンス・フォードでチェンバレンズ・ベッドをまさに渡ろうとしていた。デビンの偵察隊はファイブフォークスの近くでトマス・M・マンフォードの騎兵師団のみを視認していた。ルーニー・リーはその午後に、チェンバレンズ・ベッドのフィッツジェラルド・フォードで新たな攻撃を行う準備をしていた。 フィッツジェラルド・フォードでは、ノースカロライナ第2騎兵隊が同第5騎兵隊の支援を得て攻撃したが、その朝に第5騎兵隊が追われたように、第2騎兵隊も追い返された。ノースカロライナ第1騎兵隊のみが浅瀬の向こうで地歩を保っていた。ルーニー・リーはリチャード・L・T・ビール准将のバージニア騎兵旅団に、クリークの対岸を攻撃し、左翼から回るよう命令した。ビールとバリンジャーの騎兵旅団がスミスの前線に殺到し、北軍を開けた野原まで押し込んだうえで、素早く撤退した。
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