フィッツジェラルドとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 05:07 UTC 版)
「マックス・パーキンズ」の記事における「フィッツジェラルドとの出会い」の解説
1918年、スクリブナー社へ寄稿していた作家のシェーン・レズリー(英語版)を介して、F・スコット・フィッツジェラルドの原稿がスクリブナー社へ届けられた。『ロマンティック・エゴティスト』と題された12万語の小説原稿は、陸軍仕官中のフィッツジェラルドが、毎週末を費やして書き上げたものだった。この原稿は3ヶ月間編集部をたらい回しにされた末にパーキンズの元に辿り着いた。パーキンズは原稿に惚れ込んだが、編集室で同意は得られず、政府の出版物供給規制策や制作費の問題などを挙げて渋々出版を断った。出版を諦めきれなかったパーキンズは、作品の改善に繋がる感想をフィッツジェラルドに書き送ったり、ライバル社へ原稿を持ち込んだり(2社に送って結局どちらも突き返された)と、この小説の出版に向けて奔走している。 パーキンズの熱意の一方で、フィッツジェラルドはこの原稿への自信を喪失しており、彼の助言と骨組みを活かして、意図をより明確にした別の作品を書いた。当初『人格教育』とされていた作品のタイトルは、1919年9月にパーキンズへ実際の原稿が送られてきた時には『楽園のこちら側』と改題されていた。編集会議では、作品に眉を顰める者もおり意見は真っ二つに分かれたが、パーキンズの説得が実り出版が決定した。ゼルダ・セイヤーとの結婚を考えており、すぐにでも出版したがっていたフィッツジェラルドに対し、作品の売れ行きを考えたパーキンズは、出版シーズンとなる翌春まで待つよう説得した。『楽園のこちら側』は1920年3月26日に発行され、1週間後には2万部の大台を突破した。フィッツジェラルドは、スクリブナー社が作品を世に送り出した最年少の作家となり、刊行から1週間後には、スクリブナー社に程近い教会でゼルダと結婚した。 長編処女小説の成功で、フィッツジェラルドの年収は前年の879ドルから18,850ドルへと跳ね上がったが、彼はこれを全て使い果たして、後の破滅の一端となった浪費生活を始めた。長編第2作目に当たる『美しく呪われし者(英語版)』を書き上げたフィッツジェラルドは、夫妻のヨーロッパ旅行用の金をパーキンズへ無心しているが、この時交わした契約書が元で、パーキンズはフィッツジェラルドの金銭面を細かくサポートすることになった。この長編には、処女作刊行に一役買ったシェーン・レズリー、ジョージ・ジーン・ネーサンと並び、パーキンズ宛の献辞が付けられ、1922年3月3日に出版された。 その後もフィッツジェラルドは、『グレート・ギャツビー』などをはじめ、ほとんどの作品をスクリブナー社から刊行した。また若手作家のリーダー格として、前途のある作家をパーキンズへ紹介し続けた。その中にはリング・ラードナーや、アーネスト・ヘミングウェイなどの作家も含まれる。
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