ビリー・ホリデイとの邂逅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:41 UTC 版)
「奇妙な果実」の記事における「ビリー・ホリデイとの邂逅」の解説
やがてこの歌はグリニッジ・ヴィレッジのナイトクラブ「カフェ・ソサエティ(英語版)」の支配人バーニー・ジョセフソン(英語版)の聞き知るところとなり、当時そのクラブで専属歌手として働いていたビリー・ホリデイに紹介されることとなる。あまりにも陰惨な詩なので、ビリーも最初に唄った時は失敗したと思ったという。唄い終わっても初めは拍手一つ無かったが、やがて一人の客が拍手をし始めると、突如として客席全体が割れんばかりの拍手に包まれた。クラブの支配人バーニー・ジョセフソンはすぐにこの歌のもつ力を認め、ビリーに対してステージは必ずこの曲で締めるよう説得した。彼女が唄い出すまさにその瞬間、ウェイターは仕事を一時中断し、クラブの照明はすべて落とされる。そして、ピンスポットライトが1本、ステージ上の彼女を照らし出す。イントロの間、彼女は祈りを捧げるように瞼を閉じて佇立するのである。 黒人の虐殺が日常茶飯事であったこの当時、それを告発する歌を黒人女性が唄うのはあまりにも危険なことであったが、ビリーは1939年からこの歌をレパートリーに加え、ステージの最後には必ずこの曲を唄うようにさえなる。この歌はやはり黒人であったために非業の死を遂げた父のこと(肺炎を患ったが病院へ入れてもらえなかった。しかも其処は南部の都市の中でもとりわけ差別の激しいダラスであった)を彼女に思い出させ、それ故にこそこの曲を唄い続けなければならないと彼女に決心させたとビリーは後に語っている。ビリーと「奇妙な果実」の名はますます広く知れ渡るようになり、ついには『タイム』誌の取材までやって来るようになり、ビリーは同誌に初めて写真が掲載された黒人となる。 ビリーは自伝の中で自分も作曲に関わったと主張しているが、実際には作詞者であるルイス・アレンが作曲も1人で行なったことが明らかになっている。ビリーはこの曲を録音したいと当時契約していたコロンビアに持ちかけるが、その内容ゆえに会社からは拒否されてしまう。しかしカフェの近所のレコード店の店主ミルト・ゲイブラーの運営するインディー・レーベル「コモドア」での録音を願い出たところ、コロンビアからOKが出たので「奇妙な果実」他3曲をレコーディングし、大ヒットを記録する(「コモドア」では1944年にもレコーディング・セッションを行なっている)。「奇妙な果実」は知識人層からの評価が高く、彼女の名声がこの曲によって確立されたことは疑いようがない。この曲の人気によって彼女はその特長を生かした曲、すなわち愛をテーマとしたスロー・バラードの数々を録音するようになった(「奇妙な果実」は明らかにラヴ・ソングではないが)。
※この「ビリー・ホリデイとの邂逅」の解説は、「奇妙な果実」の解説の一部です。
「ビリー・ホリデイとの邂逅」を含む「奇妙な果実」の記事については、「奇妙な果実」の概要を参照ください。
- ビリー・ホリデイとの邂逅のページへのリンク