ヒュダスペス渡河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 14:27 UTC 版)
「ヒュダスペス河畔の戦い」の記事における「ヒュダスペス渡河」の解説
アレクサンドロスはインダス川を渡った際に使用した船を全て解体した上で、ヒュダスペス川まで運ぶように命じて、到着後に再度組み立ててヒュダスペス川沿いに並べた。また、アレクサンドロスも本陣をポロス軍の対岸に構えた。 ポロスはヒュダスペス川の川幅の狭い渡河の容易な地点を中心に警備の部隊を配置したのに対して、アレクサンドロスは自軍を複数に分けてヒュダスペス川の至る場所に襲撃または偵察として派遣し、ポロスの目先を逸らす作戦を取り、ポロスもアレクサンドロス軍の動きに惑わされて、一箇所に集中して対応することが難しくなった。 とはいえ、アレクサンドロス本陣の近くより河を渡ることは、対岸に戦象部隊や多数のポロス軍の兵士が陣を構えており、極めて困難であることから、ポロスの本軍を牽制させる為に本軍の指揮をクラテロスに任せて、自らは5,000を超える騎兵を率い、その他に歩兵部隊らを伴って、本陣から150スタディア(約27キロ)離れた、ヒュダスペス川が湾曲した地点より川を渡ることに決めた。戦いの行われたアテナイ暦のムニュキオン(Mounychion、4月後半から5月前半)の時期はインド全体が雨季に入り、ヒュダスペス川の水源となるカフカース山脈の雪が解けることで川の水量も多くなっていた。また、アレクサンドロスが渡河を試みた日は激しい雷雨の中という悪天候であったが、逆にポロス軍に動きを悟られにくくなったこともあって、警戒を切り抜けて川を渡ることに成功した。 アレクサンドロスの渡河に気づいたポロスは、自らの息子に軍を与えてこれに当たらせたが、アレクサンドロス軍はポロス軍に勝利を収め、ポロスの息子は戦死、多数の戦車が拿捕された。これに呼応して対岸のクラテロス率いるアレクサンドロス本軍がヒュダスペスを渡る構えを見せたが、ポロスは一部の守備隊を残すと共に、その残りの全軍を率いてアレクサンドロス率いる軍との決戦に向かった。
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