パン・アフリカ主義とマーカス・ガーベイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:18 UTC 版)
「W・E・B・デュボイス」の記事における「パン・アフリカ主義とマーカス・ガーベイ」の解説
デュボイスは第2回パン・アフリカ会議に参加するため1921年にヨーロッパに向かった。全世界から集まった黒人指導者たちは「ロンドン決議(London Resolutions)」を議決し、パリにパン・アフリカ協会(Pan-African Association)の本部を設立した。デュボイスの指導の下、この決議では人種の平等、アフリカはアフリカ人「によって」(1919年の会議と異なり、アフリカ人の同意を得て)統治されるものであると主張された。デュボイスはパン・アフリカ会議の決議を国際連盟への声明で改めて述べ、新たに形成された国際連盟が労働問題に取り組み、またアフリカ人を重要な地位に任命するように求めた。国際連盟はこの要求に対してほとんど行動を起こすことはなかった。 1920年代の他の重要なアフリカ系アメリカ人の指導者はアフリカ帰還運動(英語版)(Back-to-Africa movement)の推進者かつ世界黒人開発協会(英語版)(UNIA)の創設者であるマーカス・ガーベイであった。ガーベイは統合によって平等を達成しようとするデュボイスの努力を非難し、人種隔離主義を支持した。デュボイスはガーベイのアフリカ系ディアスポラの商業を促進するための運送会社であるブラック・スター・ライン(英語版)社の構想を支持した。しかし後にガーベイがNAACPの努力に脅威を与えていると心配するようになり、彼を詐欺的で無謀であるとした。ガーベイのスローガン「アフリカ人のためのアフリカ(Africa for the Africans)」に応えてデュボイスはそのコンセプトを支持すると述べたが、アフリカ系アメリカ人がアフリカを統治するというガーベイの意図を非難した。 デュボイスは1922年から1924年の間、ガーベイの運動を攻撃する『The Crisis』の一連の記事で彼を「アメリカと全世界の黒人種(Negro race)の最も危険な敵」と呼んだ。デュボイスとガーベイが真剣に協力を試みることは最後までなかった。彼らの諍いは部分的には利用可能な慈善活動資金の多くを獲得したいというそれぞれの組織(NAACPとUNIA)の欲求に根差していた。 1921年にハーバード大学が黒人を寮から排除することを決定すると、デュボイスはそれをアメリカにおける「アングロ・サクソン信仰(the Anglo-Saxon cult、北欧のトーテムの信仰、黒人・ユダヤ人・アイルランド人・イタリア人・ハンガリー人・アジア人・南方の島々の人々(South Sea Islander)の権利剥奪、北欧系白人による力づくの全世界の支配)」回復の広範な努力の一例として強く非難した。第3回のパン・アフリカ会議に出席するため1923年にデュボイスがヨーロッパに渡った時、『The Crisis』の発行部数は第一次世界大戦中の100,000部というピークから60,000部まで減少していたが、公民権運動における最も卓越した定期刊行物の地位を維持していた。クーリッジ大統領はデュボイスをリベリアへの「特命使節(Envoy Extraordinary)」に任命し、デュボイスは第3回パン・アフリカ会議が終了した後、カナリア諸島からドイツの貨物船に乗ってアフリカに向かい、リベリア、シエラレオネ、セネガルを訪れた。
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