パルマ・エ・ピアチェンツァ公国とは? わかりやすく解説

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パルマ・エ・ピアチェンツァ公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 07:44 UTC 版)

パルマ・エ・ピアチェンツァ公国
Ducato di Parma e Piacenza (イタリア語)



1545年 - 1802年1808年
1814年 - 1859年

国旗(1851年 - 1859年) 国章(ブルボン=パルマ)
国の標語: Dirige me Domine!(イタリア語)
神よ、我を導き賜へ!

1796年時点のパルマ公国の領土(オレンジ)
言語 イタリア語
エミリア・ロマーニャ語
ラテン語
宗教 カトリック
首都 パルマ
ピアチェンツァ
1545年 - 1547年 ピエール・ルイージ・ファルネーゼ
1854年 - 1860年 ロベルト1世
人口
19世紀推定 501,000人
変遷
建国 1545年9月16日
アーヘンの和約 1748年4月24日
アランフエス条約 1801年3月1日
フランスによる正式な併合 1808年
復活 1814年4月11日
中央統合諸州の結成 1859年12月8日
通貨 リラ
現在 イタリア
1639年のパルマ・ピアチェンツァ公国の地図

パルマ・エ・ピアチェンツァ公国(パルマ・エ・ピアチェンツァこうこく、イタリア語: Ducato di Parma e Piacenza)は、イタリア北部にあった国で、1545年に創られ1860年イタリア統一まで存続した。

歴史

ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世が息子のピエール・ルイージ・ファルネーゼ教皇領の一部であったパルマピアチェンツァを分けて創建したのが最初である。

1731年アントニオ・ファルネーゼが跡継ぎのないまま亡くなると、アントーニオの姪エリザベッタ・ファルネーゼを母に持つスペイン・ブルボン家のカルロス王子(後のスペイン王カルロス3世)が短期間公位に就いた。

1733年からのポーランド継承戦争の結果、カルロスはオーストリアハプスブルク家領だったナポリ王国シチリア王国を獲得するかわりに、パルマ公国をハプスブルク家に割譲した。その後、オーストリア継承戦争の講和条約である1748年のアーヘンの和約によって、再びスペイン・ブルボン家のカルロス3世の弟フィリッポ・ディ・ボルボーネへと公位が渡った。

ナポレオン・ボナパルトのフランスに侵略された後、1814年にはナポレオンの妻でハプスブルク家皇女のマリーア・ルイーザに公位が渡され、彼女の亡くなった1847年に再び公位がブルボン=パルマ家に戻された。

1860年、住民投票によりサルデーニャ王国への併合が決定され、そのままイタリア王国に統一された。

関連項目




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