パナールチューナー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/26 05:09 UTC 版)
「DB (自動車)」の記事における「パナールチューナー時代」の解説
ロングストロークのシトロエンエンジンは本来レース用のベースとしてあまり適した物ではなく、またシトロエンはレースにも冷淡でパーツ供給の面でも困難が予想されたため、1946年に610ccと小さいながらもトーションバーバルブスプリングによるOHVと高度な設計のエンジンを積むパナール・ディナXが発売されると、1948年そのエンジンを500ccに縮小したF3マシンを3台作った。しかし当時はJAPやノートンのエンジンをミッドシップで使用したクーパー・500が無敵の存在であったため活躍はできなかった。 1952年に850ccのディナ130が出るとこれをベースにしてモノミーユと呼ばれるフォーミュラ・リブレを作り、ワンメイクレースを開催した。 1954年にF1の規定が2,500ccまたは750ccスーパーチャージャー付きになるとモノミーユを750ccに縮小し、ルーツタイプのスーパーチャージャーを装着、1955年ポーのノンチャンピオンレースに2台を出場させたが、これもエンジン出力が足りず成功しなかった。この時期にはルノーエンジンを使ったRRのマシンや、2個のエンジンを前後に使用した四輪駆動車なども作っていたが、いずれも失敗に終わった。 以上単座のマシンではうまく行かなかったが、ル・マンを中心とするスポーツカーレースでは本領を発揮した。1950年以降ベースをパナール・ディナ用610ccに切り替え、1951年には745ccと851cc、1960年には702ccと各種の排気量で出場した。特に多用したのは745ccである。ボディーはアルミニウム製パネルで、形状は前面投影面積の他に、速度差のある大排気量車の渦流の影響の低減が考えられ、実戦による経験のみで当時の最先端を行っていた。ルネ・ボネは1949年のル・マン24時間レースにシャルル・ドゥーチェととも出場するなど1955年のル・マン24時間レースまでNo.1カーを自らの運転でル・マン24時間レースに出場、1952年のセブリング12時間レースやミッレミリアでクラス優勝、1953年ベルジャン24時間レースで総合4位、スポーツカーチャンピオンシップで9位を獲得した。
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