バート・マインベルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 04:02 UTC 版)
「ホルン=バート・マインベルク」の記事における「バート・マインベルク」の解説
マインベルク集落は978年に初めて記録されている。1960年に取り壊されたマイアーホーフが、この年に「curia meginbergen」という名称で建設されたのである。マインベルクが薬湯(ドイツ語版)として記録されるのは、アンドレアス・フォン・カイル(クナエウスとも呼ばれる)がマインベルガー・ゲズントブルンネン(マインベルクの健康の泉)を紹介した1676年である。ヨハン・エルハルト・トランペル(1737年 – 1817年)はジーモン・アウグスト (リッペ伯)(ドイツ語版)伯の命令により、1762年にマインベルクに存在する源泉を調査し、鑑定結果を提示した。トランペルはこの農村が温泉地となる原動力となった。1767年、伯の指示によってマインベルクは公式に「Curort」(温泉地を意味する)を称することとなった。この年の湯治客はすでに 413人を数えた。客が逗留するためのホテルが建設され、1770年には歴史的なクールパルク(クアパーク、遊歩公園)が設けられた。同じ年にヨハン・エルハルト・トランペルが所有するシュテルン湯治場が建設され、1775年にはバロック庭園であるクールガルテンをはさんだ向かい側にローゼ湯治場が設けられた。トランペルは1817年に80歳で、ピルモントで亡くなった。後継者のシェルフ(1818年没)とゲルハウスは、その後成功を収めるシュラムバーデクール(現在のモールクール)の基礎を築いた。それでも 1シーズンの湯治客が 1,000人を超えたのは1900年になってからであった。 1903年、この村は侯の命令により「バート・マインベルク」と名付けられた。しかしこの「バート」は、温泉が自治体に属すのではなく、領邦管理を意味していた。1919年に自治体も「バート・マインベルク」と呼ばれることになった。1933年にバート・マインベルクはリッペ州立温泉となった。 1947年、800年以上続いたリッペの独立の歴史が終焉し、新たに創設されたノルトライン=ヴェストファーレン州の一部に編入された。しかし、バート・マインベルクおよびバート・ザルツウフレンを含む御料地・御料林の所有はノルトライン=ヴェストファーレン州に移管されなかった。これらの資産を管理・運営するために、1948年11月5日の法によってランデスフェアバント・リッペ(リッペ地方連盟)が発足し、両州立温泉の経営にあたった。 増加する湯治客数の増加に応じて、1950年代には盛んに建設工事が行われ、またジルヴァティクムと呼ばれる公園が整備された。これによりバート・マインベルクにおけるクアパークの総面積は 40 ha を超えるまでに拡大した。1970年代から1980年代に第二の温泉ブームが起こり、ジルヴァティクムの周辺に 3つの大きな温泉病院が造られ、温熱療法用浴場が設けられた。1992年の湯治客はほぼ 38,000人で過去最高を記録した。その後、公衆衛生制度の構造改革によって湯治客数は大きく減少し、ジルヴァティクムの 3つの病院は1990年代に相次いで閉鎖された。この場所には、2003年末にヨーロッパ最大のヨーガのセミナーハウスが造られた。
※この「バート・マインベルク」の解説は、「ホルン=バート・マインベルク」の解説の一部です。
「バート・マインベルク」を含む「ホルン=バート・マインベルク」の記事については、「ホルン=バート・マインベルク」の概要を参照ください。
- バート・マインベルクのページへのリンク