バンド・コンテスト出場と向谷実の加入
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「カシオペア (バンド)」の記事における「バンド・コンテスト出場と向谷実の加入」の解説
バンドの名称をカシオペアと改めた後の1976年、野呂と櫻井、先述のロック演奏のコミュニティに属していた小池秀彦(キーボード)と鈴木徹(ドラム)を入れた4人編成でヤマハ主催のアマチュア・バンド・コンテスト「EastWest'76」に出場し、決勝大会まで進出して野呂がベストギタリスト賞を獲得したことでアマチュア・シーンに名前が知られ始める。しかし、決勝大会出場直後に鈴木は掛け持ちしていたプリズムのレコードデビューが決まったことからそちらに活動シフトを置くために脱退し、小池も当時様々なバンドを掛け持ちしていて多忙であったことから鈴木の脱退を受けてフェイドアウトするように脱退していってしまう。再び野呂と櫻井のふたりだけになったカシオペアは、翌1977年に開催される「EastWest'77」に出場するべくメンバー探しに奔走。野呂は友人のツテを頼って、自分と同学年の年齢で、当時合歓音楽院(現・ヤマハ音楽院)エレクトーン科在籍中だった向谷実をキーボーディストに勧誘して引き込んだ。その際、野呂はカシオペアの指向について、向谷が信奉していたミュージシャンのひとりを引き合いに出して「チック・コリアみたいな音楽(当時活動していたエレクトリック編成のリターン・トゥ・フォーエヴァー)をやっている」と口説いた。一方、ドラマーの人選はなかなか決まらず、幾人か代わる代わる入れ替えながら出場して行き、決勝大会出場時になってようやく佐々木隆で固定される。カシオペアは最優秀グループ賞と野呂の二年連続のベストギタリスト賞を受賞した。これが足がかりとなってカシオペアは「EastWest '77」決勝大会出場メンバーでプロデビューを目指すこととなって都内近郊でライブ活動開始。1990年代以降はこの1977年を公式にカシオペア結成の年としている。 このデビュー前の時期、「EastWest'77」の審査員だった鳴瀬喜博に見いだされ、野呂と向谷はプロとしての仕事に度々誘われるようになる。また、大村憲司、村上秀一といったフュージョンに傾倒していたロック系ミュージシャンとも交流を築く。先行してデビューしていたプリズムとは同じロック演奏のコミュニティ出身だったことから、ともに結成以前からメンバー間の交流もあった一方で、フィールド違いの大学のジャズ研出身だったザ・スクエア(現・T-SQUARE)とはデビューしてから知り合うことになるのでこの当時は面識さえもなかった。また、ともに「EastWest'77」に出場して決勝大会まで進出したサザンオールスターズとはプロ志向どうしであったから合同でライブを行ったり、一緒にイベント出演をするなど共演の機会が多かったバンドの一つだった。
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