バシコルトスタン共和国大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 04:25 UTC 版)
「モルタザ・ラヒモフ」の記事における「バシコルトスタン共和国大統領」の解説
1993年11月、連邦院代議員に推薦され、同年12月、全国民投票により初代バシキリア大統領に選出された。同月、新しいバシコルトスタン共和国憲法(2000年に改正)が採択された。1994年、連邦政府との権限分立に関する条約が署名され、共和国大統領は、行政地区・市の首長を任命する権利を得た。 1998年6月14日、対抗馬がいない状況下で大統領に再選。1999年4月、社会・政治ブロック「全ロシア」創設の発議者の1人となり、間もなく、ユーリ・ルシコフ率いる「祖国」と合流した(祖国・全ロシア)。祖国・全ロシアは統一ロシアに発展し、2001年12月、ラヒモフは同党の最高会議議員となった。 2003年12月の大統領選は、ラヒモフとサンクトペテルブルク出身のビジネスマン、セルゲイ・ヴェレメーンコとの一騎討ちとなった。対抗馬が出現した理由の1つは、連邦政府がラヒモフの息子のウラルが管理する共和国所有の石油会社「バシネフチ」と「バシネフチェヒム」の連邦への移管を要求していたことにあった。これに対し、ラヒモフは、連邦の干渉を避けるためバシネフチを民間会社の「バシキール・カピタル」に売却し、ウラルをその代表取締役に就任させた。12月21日の選挙において、ラヒモフは大統領に三選された。 2005年、ブラゴヴェシチェンスク市において民警が市民を不法拘束する事件が発生した後、ラヒモフ退陣を要求する野党の集会が始まった。同年、連邦政府との関係改善を模索したラヒモフは、息子のウラル(英語版)に石油関連会社の民有化の結果を清算するよう要求した。その結果、130億ルーブルが連邦予算に編入された。 2006年9月、ラヒモフは自らの信任問題を提起した。同年10月、ウラジーミル・プーチン大統領はラヒモフを共和国議会に推薦し、全会一致でラヒモフが4期目の大統領に選出された。2007年10月、第5期国家院選挙において現地統一ロシアを指揮。 大統領職の他、バシコルトスタン共和国会議議長、バシコルトスタン共和国大統領会議議長、バシコルトスタン共和国社会安全省庁間会議議長を兼任し、ロシア連邦国家院の議員でもあった。 2010年7月、ラヒモフは任期(2011年11月まで)を残して辞表を提出し、7月15日にドミートリー・メドヴェージェフ連邦大統領は辞表を受理して、ルステム・ハミトフ(英語版)を大統領代行に任命した。
※この「バシコルトスタン共和国大統領」の解説は、「モルタザ・ラヒモフ」の解説の一部です。
「バシコルトスタン共和国大統領」を含む「モルタザ・ラヒモフ」の記事については、「モルタザ・ラヒモフ」の概要を参照ください。
- バシコルトスタン共和国大統領のページへのリンク