バシキール民族運動
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「ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー」の記事における「バシキール民族運動」の解説
クルバンガリーは、1889年にロシア帝国のオレンブルク県チェリャビンスク郡に生まれた。当地で有名なイシャーンであった父と共に、宗教活動に携わった。 1917年にロシア革命が起きると、クルバンガリーは、バシキール民族運動に身を投じた。1917年5月に全ロシア・ムスリム大会が開かれると、バシキール人代表団はタタール人の主導で進められる大会に反発し、バシキリアの領域自治を掲げて自立化に向かった。アフメト・ゼキ・ヴェリディに率いられたバシキール人の主流派は、白軍のコルチャーク派について、赤軍と戦った。 一方、クルバンガリーは、主流派のヴェリディと対立して、領域自治、土地社会化に反対。文化的自治を主張し、バシキール人独自の宗務局の設立を求めた。1919年にヴェリディが赤軍側に寝返ると、クルバンガリーは白軍のコルチャーク側に留まり、1920年のコルチャークの敗死後は、日本軍の仲介でチタのセミョーノフの元に身を寄せた。
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