ハンカチを広げわれらの孤島なり
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評 言 |
「居場所」という言葉は、なかなか味わい深い言葉である。よく、「組織の中での役割」とか「家族関係」と言った文脈で使われるので、疎外感や軋轢など、あまりよくないイメージを連想しがちだが、この言葉の「居る」という動詞はかなり主体的なニュアンスを持っている。自分に適合した環境条件を自ら探し、そこに溶け込もうとする積極性と適応力。条件の折り合う場所を見つけたら、しばらくは居させてもらおうと言ったしたたかささえ伺える。中心に居座るわけではないが、生態系の邪魔にならぬよう控えめに。およそ自然界の棲み分けとはそんなものなのだろう。つまるところ「居場所」とは、個体がその個性を活かしつつ、周囲から過度に干渉されないで、それなりに生活できる、そんな空間を指すのかもしれない。 さて掲出の作品である。この句の「ハンカチ」も「孤島」も、ある意味で自分達の「居場所」を示しているように見える。島の地面にハンカチが敷かれ、その小さな広がりが、若い夫婦や恋人達にとっての占有面積になるのかもしれないし、ハンカチを風に打ち振って、自分達の主義主張を護持できる領土の宣言をしているのかもしれない。前者のロマンスにも、後者のレジスタンティズムにも、私は、「団塊」と呼ばれる作者の世代に独特なものを感じるのだが、いずれの場合も、自己と社会の関係の確立が、「居場所の獲得」を媒介としてなされている点が面白い。そして、その行為の動機や背景となる心情に、世代に共通した何かを感じるのである。 現在、個別化や多様化の時代を迎え、そうした情景も複雑なものとなっている。社会の条件も複雑化し、個人の機能や願望も様々で、両者の一致の確立、(つまり幸福感の獲得の確率)は相対的に低くなっているのかもしれない。いわゆるニートの増大も、家庭問題の深刻化も、そこにひとつの要因があるような気がする。そして将来、その難しさは、「団塊」を含む全ての世代に共通したものとなるのだろうと思われる。 出典: 午後 |
評 者 |
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備 考 |
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