ハウスホーファーの地政学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:59 UTC 版)
第一次世界大戦により、ドイツは全植民地と西部領土・北部領土・北東部領土および南東部領土を喪失した。新しい民主的政府がヴェルサイユ条約に調印せざるをえなかったという事実は、民主主義への訴えを弱め、国内におけるナショナリズムと地政学に対する興味を醸成した。 当時のドイツ地政学の中心人物となったのが、カール・ハウスホーファーである。イギリス人であるマッキンダーがドイツとロシアの連携を危惧したのに対して、ドイツ人であるハウスホーファーは同様の世界観から両国の同盟の必要性を訴えた。新しく誕生した共産主義国家である、ソビエト連邦との密接な協力を積極的に支持するのは不適切とみなされていた時期にあって、彼はソ連・日本との密接な協力により、ユーラシア大陸を横断する政治的ブロックを作り上げることこそが、大国としてのドイツを再興するための最良の手段であると主張した。 ハウスホーファーはルドルフ・ヘスと親交を深め、「国境を越えたドイツ人の生存のために働く」ためナチス・ドイツに積極的に協力した。アドルフ・ヒトラーは、ハウスホーファーの思想から「生存圏」の概念を援用し、第三帝国が領土を拡張することの理論的根拠とした。しかし、人種主義に重きを置かない彼の思想は1930年代にはすでに求心力を失っており、ヒトラーの政策とハウスホーファーの地政学は、独ソ戦が開戦される1941年には食い違うものになっていた。ハウスホーファーはドイツの降伏後、占領軍による尋問を受けたものの起訴はされず、1946年に妻のマルタとともに服毒自殺した。 フレデリック・ソンダーン(Frederic Sondern)が1941年に、リーダーズ・ダイジェストにおいて「千人ものナチ科学者」を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるという事実ではない主張を展開したことに代表されるように、戦争中の英米における刊行物において、ハウスホーファーはナチスの政治戦略に事実以上に強い影響力をもたらしている人物として描写された。地政学とナチスの強い結びつきに関する言説は、アメリカやソ連をはじめとする他の国々の地理学者の多くに、この用語を使うことをためらわせた。
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