ハイドリヒのチェコ統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 00:48 UTC 版)
「エンスラポイド作戦」の記事における「ハイドリヒのチェコ統治」の解説
ラインハルト・ハイドリヒは、親衛隊(SS)でハインリヒ・ヒムラーに次ぐ実力者だった人物でゲシュタポ(国家秘密警察)、親衛隊保安部(SD)、刑事警察を統括する巨大警察組織国家保安本部(RSHA)の長官であった。彼はナチスに反抗する人間を取り除く役目を担っており、ユダヤ人虐殺計画の主要な遂行者であった。彼はヒトラーやナチスの陰謀のほとんどに参加し、ナチス政権において重要な政治的地位を築いていた。彼はその能力と権力により、多くのナチスの要人や国防軍の高官たちから恐れられていた。その残忍性によって、ハイドリヒは「金髪の獣」「絞首刑人」の通り名で呼ばれていた。 ハイドリヒは「飴と鞭」の統治でベーメン・メーレン保護領を支配した。ハイドリヒは到着と同時にチェコ全土に戒厳令を敷き、即決裁判所を設置させ、反体制派の指導者層(中産階級のインテリ層)を次々と逮捕して死刑に処した。チェコ首相アロイス・エリアーシも逮捕されて死刑判決を受けた。繰り返される処刑からハイドリヒは「プラハの虐殺者」という新たな通り名を得ることとなった。一方、ハイドリヒは労働者階級に対しては懐柔する政策を取った。労働者の食糧配給と年金支給額を増加させ、チェコの歴史で初めての雇用保険を創出させた。また、カールスバートのリゾートホテルなどを接収して労働者の保養地として開放するなどもした。そのため労働者階級は中産階級インテリ層の起こす抵抗運動に参加することはなくなり、チェコの抵抗運動は手足を失って死滅していった。 ハイドリヒは、プラハでは「人間味ある総督」に見せようと心がけていた。記者にリナや幼い子らと一緒にいる写真をよく撮らせていた。また一家は重々しいプラハ城に定住せず、プラハ郊外にあるやや田舎のパネンスケー・ブジェジャニ(Panenské Břežany)に所領をもってそこで暮らした。自身の乗用車である「SS-3」のナンバープレートのメルセデス・ベンツもオープンカーの状態にしてプラハ市民に自分の姿がよく見えるように走らせることが多かった。威圧的にならぬよう護衛車両をつけることもあまりしなかった。ヒムラーはプラハ訪問中にハイドリヒの個人警護が少なすぎると懸念し、警護をもっと増やすよう命じており、またヒトラーもハイドリヒの警護に無頓着な態度を頻繁に戒めていたが、ハイドリヒは最期まで耳を貸さなかった。結果的にはこれが命取りとなった。
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