ハイアワサ・アサイラム
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「オスカー・ギフォード」の記事における「ハイアワサ・アサイラム」の解説
ギフォードは1901年から1908年まで、カントンに建てられたインディアン用の国立精神病院(ハイアワサ・アサイラム)の初代管理人を務めた。 ハイアワサ・アサイラムは、当時唯一の国立精神病院であったセント・エリザベス病院(英語版)の過密状態の解消やインディアンの精神疾患患者の医療アクセス向上を目的に設立された。アサイラムを計画したのは、1899年当時上院インディアン委員会の委員長を務めていたリチャード・F・ペティグリュー上院議員(サウスダコタ州選出)であったが、人道的目的というよりはカントンの雇用確保と用地利用という目的が大きかったとされる。イーサン・A・ヒッチコック内務長官は、専用の精神病院を作るほどインディアンの精神疾患の患者が多くないことなどを理由にアサイラムの建設に反対していたが、病院の建築費4.5万ドルが含まれた予算案が可決され、建設が決定した。なお、この時ギフォードは土地取得のための法的手続きを行なっている。 ギフォードは、1901年に建設途中だったハイアワサ・アサイラムの管理人に就任した。アサイラムには全国各地のインディアン居留地から精神疾患の患者が集められたが、劣悪な環境のために多くのインディアンが亡くなった。また、1929年になってインディアン事務局に行われた調査によれば、患者の中には精神疾患の兆候が見られないものもおり、患者の精神診断記録はほとんど残されていなかったことがわかっている。ギフォードが管理人を務めていた際にも、精神疾患患者ではないインディアンが入院していたようで、1909年頃には「あらゆる種類の不良者の避難所(a place of refuge for all kinds of defectives)」と呼ばれていたとされる。 1908年、インディアン事務局局長のフランシス・E・リュープによって、ギフォードはアサイラムを解任された。解任のきっかけは、1906年に起こった患者の妊娠事件であった。アサイラムに入院している若い女性患者(既婚)が他の男性患者によって妊娠させられ、病院内で出産していた。生まれた子はスーフォールズの孤児院に預けられたが、この一連の事件をギフォードは隠蔽し、インディアン事務局に対して報告しなかった。その後、リュープによって極秘調査が行われ、患者に適切な衣服や食糧を与えておらず、大人しい患者を長時間監禁するなどの不適切な措置が行われていることも発覚し、ギフォードは管理人としての責任を問われ解任された。 その後、1929年になってインディアン事務局によって、アサイラムの実態調査が行われ、暴力的な運営方法や医療環境の不適切さなどが問題視された。アサイラムでの年間当たりの死者は4人であったが、その患者の死因の多くは結核であった。また、梅毒に感染しているのにもかかわらず、治療されないまま放置されている患者もいたという。同報告書を受け、インディアン事務局は患者を他の施設に移送し、ハイアワサ・アサイラムの閉鎖するとの決定を行ったが、サウスダコタ州議会によって、運営がそのまま続けられた。1933年にアサイラムは閉鎖されたが、1902年から1934年までの運営の間、50の部族から300人以上のインディアンが入院し、うち120人が亡くなっていたという。
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