ニューカッスル公爵内閣
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「フィリップ・ヨーク (初代ハードウィック伯爵)」の記事における「ニューカッスル公爵内閣」の解説
詳細は「第1次ニューカッスル公爵内閣」および「第2次ニューカッスル公爵内閣」を参照 1754年にペラムが死去すると、ハードウィックはニューカッスル公爵を首相に押し上げ、その謝礼としてハードウィック伯爵とロイストン子爵に叙された。1756年11月、内閣の弱体さと外国の脅威(イギリスは七年戦争でフランスに劣勢だった)でニューカッスル公爵が辞任を余儀なくされると、ハードウィックも下野した。1757年にニューカッスル公爵とウィリアム・ピットの連立政権交渉に関与、入閣もしたが貴族院議長(当時は大法官が兼任)の職には戻らなかった。1760年にジョージ3世が即位した後、ハードウィックは1762年にビュート伯爵内閣によるフランスとの講和に反対、翌年のサイダー法(英語版)にも反対した。ジョン・ウィルクスの裁判においては一般逮捕状の発行に反対、庶民院議員による煽動的な誹謗文書配布への議員特権(英語版)適用にも反対した。1764年3月6日、ロンドンで死去した。 ヨークは1739年にケンブリッジシャーで最も大規模なカントリーハウスであるウィンポール・ホール(英語版)を購入しており、死後は先祖の多くとともにウィンポールのセント・アンドリュー・チャーチヤード(St. Andrew Churchyard)で埋葬された。伯爵位は長男のフィリップが継承した。 いとこの初代准男爵サー・ウィリアム・ヨーク(英語版)はアイルランドで裁判官として出世、アイルランド上級裁判所上級判事(英語版)まで昇進した。
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