ニューカッスル公内閣北部担当大臣
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「ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)」の記事における「ニューカッスル公内閣北部担当大臣」の解説
1761年3月になると、ビュート伯爵は国王の後押しを受けてニューカッスル公内閣に北部担当国務大臣として入閣した。しかしスコットランド貴族のビュート伯爵は、この時点では上下両院のいずれにも議席を持っておらず、議会の議員を大臣に任命するという長年の慣行が破られた形での任命となった。また当時、七年戦争は重大な局面を迎えており、このような時期に国王側近を閣内に送り込むのは閣内不一致の原因になりかねないと憂慮されていた。そのため彼の登用には当初より批判が多かった。なお、議席の問題については同年のうちに貴族代表議員に選出されて、貴族院の議席を得ることで対応している。 閣内では大ピットが主戦論を唱え、ビュート伯はジョージ3世とともに早期講和論を唱え、その対立は徐々に激しくなった。1761年8月にフランスとスペインの同盟が成立すると、大ピットはスペインにも宣戦布告することを求めたが、ビュート伯もニューカッスル公もスペインとの開戦には反対した。孤立した大ピットは10月に辞職した。大ピット辞職後、結局スペインとの開戦は不可避の情勢になり、1762年1月にイギリスはスペインに宣戦布告した。ビュート伯はスペイン戦の戦費を確保するために同盟国プロイセンへの援助金を打ち切ることを主張した。ニューカッスル公はそれに反対だったが、もはや彼にビュート伯を掣肘する力はなく、1762年5月末にビュート伯に第一大蔵卿(首相)職を譲って辞職した。
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