ナポリ=アラゴン対シチリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 16:02 UTC 版)
「シチリア晩祷戦争」の記事における「ナポリ=アラゴン対シチリア」の解説
タラスコンの和平により、アラゴンとの戦闘は終わったものの、それから1ヶ月とたたずアルフォンソ3世が死去したことは、わずかな影響を与えた。アルフォンソ3世の弟のシチリア国王ジャコモ1世がハイメ2世としてアラゴンを相続したことで、二つの王国は統一された。1295年にハイメ2世はアナーニ条約に調印し、それに従う形でシチリアを教皇領に寄進して、時の教皇ボニファティウス8世はそれをシャルル1世の息子シャルル2世に授けた。しかし、ペドロ3世の三男でシチリア摂政であったフェデリーコ2世は条約の黙認を拒絶し、シチリア人によって彼らの国王と宣告された。かくしてアラゴン=シチリアのフェデリーコ2世と、アンジュー=ナポリのシャルル2世との間で新たなる戦闘が起きた。 しかし条約では、戦闘の際にハイメ2世にはシャルル2世に助力することが義務付けられていたことから、ハイメ2世はこれに従う形でカタルーニャから艦隊を送り込み、シチリア沿岸を襲撃してフェデリーコ2世を悩ませた。フェデリーコは即座に攻撃態勢をとって、1296年にカラブリアに侵攻した。幾つかの塔を包囲し、ナポリの反乱を扇動してトスカーナやロンバルディアの皇帝派と交渉し、教皇に対抗するコロンナ家を援助した。 ハイメ2世は1295年に締結された条約の遂行と、和平の実現に非常に熱心であった。かくしてハイメは、父に仕えた有能な人物であるジョヴァンニとルッジェーロを支援した。1299年7月4日にハイメはルッジェーロを伴い、自ら艦隊を指揮してオルランド岬の海戦(カタルーニャ語版)においてフェデリーコを撃破した。他方、シャルル2世の息子でハイメ2世の娘ビオランテと結婚したロベルト1世賢明王とターラント公フィリッポ1世は、シチリアに上陸してカターニアを占領した。フィリッポはトラーパニの包囲に移ったものの、フラコナラの戦い(カタルーニャ語版)でフェデリーコに敗北して捕虜となった。カラブリアにおいて、フェデリーコ2世は自身の継承権を高めた。1300年6月14日にルッジェーロはポンサの戦い(カタルーニャ語版)でシチリア軍を撃破し、フェデリーコを捕虜とした。 1302年にヴァロワ伯は、教皇ボニファティウス8世の命によりローマへ赴いた後、シチリアに上陸したものの、その軍勢が疫病によって損害を被ったことから、和平を訴えることを余儀なくされた。8月19日にカルタベッロッタの和平が結ばれ、フェデリーコ2世は「トリナクリア (it) 国王」の称号を帯びたシチリア島全土の王として、シャルル2世は「シチリア国王」の称号(多くの歴史家はその置かれた都から「ナポリ国王」と呼び習わしている)を帯びる南イタリア全土の王として、それぞれ認められた。1303年5月に教皇が条約に批准し、フェデリーコ2世は彼に貢税を払った。また、フェデリーコ2世とシャルル2世の娘エレオノーラの結婚が執り行われた。
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