ナベプロ帝国の陰り~晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 10:04 UTC 版)
しかし、日本テレビ系列で始まったオーディション番組『スター誕生!』によるホリプロや、数年間提携していたジャニーズ事務所、さらに吉本興業、バーニングプロダクションなどの台頭、伊東ゆかり、森進一、木の実ナナ、布施明など人気タレントの相次ぐ独立もあり、1970年代後半から徐々にナベプロ帝国の影響力にかげりが見え始めた。また自身の体調悪化(後述)に加え、ワンマン体制が長期化した事や、時流の変化に自身がついていけなくなり、大里洋吉(後にアミューズを創業)や松下等が運営方針の食い違いで対立し社を去るなど、社内においても人事面等での対立等もあり次第に孤立していった。 1970年に左の頬に皮膚癌を発症。一度は根治したかに見えたが、1974年に再発。その後は死去するまで癌との闘病を強いられることとなった。コバルト治療の副作用で左目の視力を失い、晋自身が「ものを考えられない」とこぼすほどの激しい頭痛にも悩まされた。最晩年はやせ衰え、本来経営者として盛りである五十代であるのにも関わらず、老人のように痛々しく衰弱していた。それでも、病身を押して死の間際までゴルフやパーティーに出席するなどプロダクション経営の一線に立ち続けた。 1987年1月31日に59歳で急死した。臨終の際、ジャズシンガーの勉強中であった娘のミキに「スターダスト」を枕元で歌うように乞い、「シャボン玉ホリデー」のエンディング曲であり渡辺プロの象徴的メロディともいえる、このスタンダードナンバーが口ずさまれる中で永眠したといわれる。 株式公開の話を幾度となく持ちかけられたが、「芸能市場は長期的なスパンが必要であり、株価を気にし株主に常に配当をしなければならないという状況下では成立しにくい。」と判断。株式の公開を行わなかった。 日蓮宗の信者であり、かつては新入社員研修を寺院で催すのが恒例であった。事務所には「晋は新である…、新は進である…。」等の言葉からなる額縁が掲げられており、実質的な社訓であったという。
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