ドイツ・エアロスペース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:30 UTC 版)
「ユルゲン・シュレンプ」の記事における「ドイツ・エアロスペース」の解説
1989年にダイムラー・ベンツ傘下の航空事業をまとめる形でドイツ・エアロスペース(DASA, Deutsche Aerospace Aktiengesellschaft)が設立された。シュレンプはそのCEOとして経営を任され、1989年から1995年までその職を務めることになる。同社はドイツの航空宇宙企業の寄せ集めで設立されたものであり、各部門の利害は異なっていたが、シュレンプはこれをまとめ上げた。 DASAの経営者としての最初の仕事は、メッサーシュミット・ベルコウ・ブロームとの統合である。当初ドイツ政府はダイムラー・ベンツがこの分野の市場を独占することを懸念して両社の合併を許可しなかったが、その交渉にあたったシュレンプは今後の成長が見込める分野を発展させる好機であることや、労働者の長期的な雇用を保証することが公共の利益となることを強調し、1989年9月には経済大臣のヘルムート・ハウスマン(英語版)から合併の許可を与えられた。 しかし、この時期には冷戦の雪どけにより東側では東欧革命の末にワルシャワ条約機構も解体され(1991年)、それらにより軍用機生産は妥当性を失い、DASAの業績も低迷した。 その損失を減らすため、シュレンプは「ドル安救済策」(Dollar Low Rescue)、通称「ドローレス」(DoLoRes)と呼ばれる厳しいコスト削減プログラムを実行した。この施策では3つの工場を閉鎖し、1993年から1995年の間に、およそ86,000人の従業員中35,000人以上を「放出」した。メッサーシュミットとの合併の許可は「一人の解雇者も出さない」ことを条件として与えられたものであり、ドイツ政府はこの約束を実質的に反故にされたことになり、合併に許可を与えたことは「ドイツの歴史上最大の行政的失敗」と呼ばれ批判された。 DASAに関しては、結果として「ドローレス」による立て直しが奏功し、後に同社は航空宇宙企業の中でも主要な地位を占めるに至り(EADSに発展しダイムラーは円満に航空事業から手を引いた)、その基礎を築いたことはシュレンプの功績とされている。一方、1993年に行ったフォッカーの買収は大きな失敗となり(1996年に同社は倒産)、その責任の大部分はシュレンプにあったとされ、シュレンプの経歴において大きな汚点となった。
※この「ドイツ・エアロスペース」の解説は、「ユルゲン・シュレンプ」の解説の一部です。
「ドイツ・エアロスペース」を含む「ユルゲン・シュレンプ」の記事については、「ユルゲン・シュレンプ」の概要を参照ください。
- ドイツエアロスペースのページへのリンク