トゥイッケナム・スタジオでのリハーサル
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「フォー・ユー・ブルー」の記事における「トゥイッケナム・スタジオでのリハーサル」の解説
「フォー・ユー・ブルー」は、1961年1月にビートルズがトゥイッケナム・スタジオ(英語版)でリハーサルを行なった楽曲の1つである。後に『レット・イット・ビー』として知られるようになった映画のプロジェクトには、1966年のアメリカツアー以来となるライブ・パフォーマンスへの復帰がプロジェクトの一環として組み込まれていた。1968年12月にウッドストックから戻ってきたハリスンは、このプロジェクト、とりわけアンサンブルを基本とした演奏への回帰について「かなり楽観的であった」とされている。リハーサルは、ビートルズのテレビコンサートにドキュメンタリー映画を添えることを意図し、マイケル・リンゼイ=ホッグによって撮影・録音されていた。 1月7日にハリスンは本作の草案を提出したが、この日はグループ内での対立が目立つ日となった。『ゲット・バック』のセッションで残されたテープを研究したダグ・サリピーとレイ・シュヴァイクハートは、共著書の中で「ビートルズは『フォー・ユー・ブルー』について中途半端なリハーサルを行ない、将来についての議論の中で、ハリスンが提案されたコンサートについてマッカートニーと意見が合わなかった」と書いている。また、ハリスンが作曲した「オール・シングス・マスト・パス」、「レット・イット・ダウン」、「ヒア・ミー・ロード」についてジョン・レノンとポール・マッカートニーは興味を示さなかった 。1月9日のリハーサル時点で、ハリスンは本作の歌詞を完成させていて、本作に「伝統的なカントリー・ブルースのようなアコースティックなアレンジが必要だ」と提案した。この翌日、ハリスンはマッカートニーの威圧的な態度やレノンのプロジェクトへの無関心さに嫌気がさしたことにより、セッションを離脱した。
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トゥイッケナム・スタジオでのリハーサル
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「アイ・ミー・マイン」の記事における「トゥイッケナム・スタジオでのリハーサル」の解説
トゥイッケナム・スタジオでのリハーサルは、ドキュメンタリーの監督を務めたマイケル・リンゼイ=ホッグによって撮影・記録された。1月8日の朝、ハリスンはレノンとマッカートニーが到着するまでの間に、リンゴ・スターのために「アイ・ミー・マイン」を演奏して聴かせた。本作についてハリスンは「ヘヴィワルツ」と説明した。 1月8日に行なわれた本作のリハーサルには、かなりの時間を費やしており、合計41回演奏された。この時の曲の長さは1分半ほどだった。作家のジョン・ウィンは著書で「マッカートニーとスターは熱心にサポートしたのに対し、レノンはほぼ不参加」と書いているのに対し、サリピーとシュヴァイクハートは共著書で「レノンはハリスンに『ビートルズはロックンロールしか演奏しない。バンドのプレイリストにスペインのワルツが入る余地はない』と言い、マッカートニーはスペイン語のアクセントで歌うかたちで『アイ・ミー・マイン』を嘲笑した」と書いている。ビートルズの伝記作家であるケネス・ウォマック(英語版)は、「この前日に却下されたハリスンの編曲に関する提案に続くレノンの嘲笑は、レノンがバンドメイトを『餌にした』例」としている。 その後、ハリスンはマッカートニーの態度やレノンのセッションへの意欲の欠如に辟易し、1月10日にセッションから一時的に離脱した。
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