ダマスクス事件とは? わかりやすく解説

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ダマスクス事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)

反ユダヤ主義」の記事における「ダマスクス事件」の解説

1840年2月シリアダマスクスカプチン会修道士トマ神父失踪したフランス領事は地元ユダヤ教徒たちが事件黒幕断定しユダヤ教徒たちを儀式殺人容疑告訴したユダヤ教徒たち2名がオーストリア国籍であったため、オーストリア領事ユダヤ人救援しようとした当時エジプト・トルコ戦争1831年1840年)でオスマン帝国エジプト対立しており、東方問題としてヨーロッパ各国外交問題ともなっていた。エジプト・トルコ戦争講和条約ロンドン条約イギリスロシア帝国オーストリア帝国プロイセン王国各国オスマン帝国支持しエジプトムハンマド・アリーシリア領有放棄エジプト総督就任認め一方でフランスティエール政府エジプト総督ムハンマド・アリー支持しており、ダマスクス事件の対処でも対立した。ダマスクス事件によって、フランス国内では、東方ユダヤではいまなお儀式殺人という迷信ユダヤ教徒義務として定めており、カプチン神父ユダヤ人食べられたなど、反ユダヤ主義愛国主義流布した。イギリスではフランスへ反発もあって、ロンドン市長ユダヤ人モンテフィオーレ卿(Moïse Montefiore)、フランスアドルフ・クレミュームンク特使団を派遣したティエール解任国際紛争幕切れとなった。この解任にはロスチャイルド家ジャム働きかけたという見方もある。 この事件後、クレミューは国際組織世界イスラリエット同盟AIU, L'Alliance israélite universelle)」を創立し1842年にはクレミュー、セルフベール、フールドの3人のユダヤ人フランス下院議員となったユダヤ新聞「イスラリエット古文書」は、もはや分裂の種も、宗教差異も、永年憎悪なくなったユダヤ民族なるものはもはやフランス土地には存在しない」と報道した

※この「ダマスクス事件」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「ダマスクス事件」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。

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