ダビデ王の治世とその晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 00:34 UTC 版)
エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び上げた。ダビデがヘブロンで即位したのは30歳のときであり、7年6ヶ月の間ヘブロンでユダを治め、33年の間エルサレムでイスラエル全土を統治した。ダビデはペリシテ人だけでなく、モアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も打ち破り、これらを配下に収めた。 ダビデは晩年、家臣ウリヤ (ヒッタイト)(英語版)の妻であるバト・シェバが水浴びしているのを見初め、彼女を呼び出し関係を結ぶ。妊娠がばれるとまずいのでウリヤを戦場から連れ戻し、バト・シェバと床に入るように画策する。しかし、これがうまく行かないことを知ると、ウリヤを最前線に追いやり、戦死させた。預言者ナタンはこれを知ってダビデを責めた。ナタンがダビデの犯した罪をたとえ話で語るとダビデは自分のことと思わずに激怒し、「そんなことをした男は死罪だ」といった。ナタンがそれがダビデのことであると明かすと、ダビデは自らの罪を悔いた。神は罰として、バト・シェバから生まれた子供の命を奪った(生後数日で病死した)。次にバト・シェバから生まれた子供が次の王になるソロモンである。また、ダビデの長男でアヒノアムから生まれたアムノンが異母妹タマルを犯し、それに怒ったタマルの同母兄で三男のアブサロム(アムノンの異母弟)がアムノンを殺し、やがて父ダビデに対し謀反を起こした。ダビデは一時都エルサレムを追われた。ダビデはなんとかアブサロムの反乱を収めたが、アブサロムはダビデの意に反して家臣によって殺害され、ダビデはアブサロムの死を嘆き悲しんだ。 ダビデは、中央集権的君主制を樹立し、傭兵の軍隊を組織した。そして、税を徴収するために人口調査のような改革策をいくつか実施した。これらの改革案が人々に衝撃を与えた。ダビデは、いつの間にか王国を主なる神のものではなく、自分のものとしていた。ユダヤ教の原本成立も、この頃である。 年老いたダビデ王は体が暖まらなかったのでシュネムのアビシャグという美しい娘を傍らに置いて自らの世話をさせた。そんな折ハギトの子アドニヤがダビデを差し置いて自ら王を名乗るという事件が起こった。ナタンとバト・シェバはこれを聞いてダビデのもとに赴き、息子ソロモンを次の王にするという誓いをたてさせた。祭司ツァドクはソロモンに油を注ぎ、ここにソロモンがイスラエルの3代目の王となった。ダビデはソロモンに戒めを残して世を去り、「ダビデの町」に葬られた。
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