ダビデの町とアクラが合体していたとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 17:18 UTC 版)
「アクラ (要塞)」の記事における「ダビデの町とアクラが合体していたとする説」の解説
『マカバイ記1』はマカバイ戦争と同時期に記録された文献であるため、『マカバイ記1』の1章35から38ページにおけるアクラの記述は最も信頼できるものだと考えられており、その記述はアクラは神殿の南に位置していたと示している。ヨセフスはアクラの建っていた丘の破壊に関してはありえない説明をしていたが、ユダヤ戦争の終結(70年)についての記述にはアクラが神殿の南に位置していたという追加の証拠を残していた。 ...。しかし、翌日彼らは公文書の貯蔵庫、アクラ、公営住宅、そしてオーヘル(英語版)と呼ばれた場所に放火した。そのとき、この火はアクラの中心部に位置するヘレナ女王(英語版)の宮殿まで回った。 —フラウィウス・ヨセフス、ユダヤ戦記 6:354、 この記述に記された他の建造物は下部地域の南に位置していたため、アクラも同様の地域にあったのではないかと提唱された。この記述は、ヘレニズム時代の統治の終焉を迎え、アクラが壊滅した後も数年間、エルサレム南部にその名前が地名として存在していたことや、アクラが特定の建物ではなく、エルサレムの特定の地域全体を指した名前であると証明している。実際に、『マカバイ記1』のいくつかの項は同様の点を示していると読むことができる。 ニカノール(ヘブライ語版)軍のうち、約500人が倒され、残りの兵はダビデの町に逃亡した。 —『マカバイ記1』 7:32、 そして彼の時代は彼の手によって繁栄したため、エルサレムにあるダビデの町の住民は、要塞(ギリシア語:Acra)を建てたことで、そこから聖域の周辺へ出撃して汚し、その純潔にダメージを与えたことで、異教徒と同様に国から追放された。 —『マカバイ記1』14:36、 これらは、紀元前168年にアンティオコス4世がエルサレムを略奪した後、神殿の丘南部にあるダビデの町の少なくとも一部が要塞化されたエルサレムのヘレニズム時代の地区として再建されたことを示唆している。アクラは要塞であること以上に、ユダヤ教の背教者や新体制の支持者が住む、マケドニアの植民地であった。このことは、ロドス島の刻印がされたアンフォラの取っ手やダビデの町東部の斜面で発見された18個の墓を含む、考古学的証拠によって支持されている。後者に関しては2世紀初頭まで遡る必要がある上、第二神殿時代(英語版)のユダヤ人の埋葬方法に特徴がないものの、アッコ(プトレマイス)の墓のようなヘレニズム時代に作られたことが判明している墓に類似していることで証明されている。
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