ダニエル・ブーンの捕獲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 08:37 UTC 版)
「ブーンズボロ包囲戦」の記事における「ダニエル・ブーンの捕獲」の解説
インディアンはケンタッキーの要塞化された開拓地から開拓者を追い出すことができなかったので、食料が不足すれば開拓者が去っていくだろうと期待し、畑を破壊し、家畜を殺した。ブーンズボロの食料が乏しいなかで、開拓者は肉を保存するために塩を必要としていた。1778年1月、ダニエル・ブーンは30名の部隊を率いてリッキング川の塩泉に向かった。2月7日、ブーンが遠征隊のための肉を確保するために出たところで、ブラックフィッシュが率いる戦士隊に急襲され、捕まえられた。ブーンの部隊は勢力で劣っていたので、隊員には戦うよりも降伏する道を選ばせた。 ブラックフィッシュはそのときブーンズボロの守りが弱くなっていたので、ブーンズボロまで行って占領することを望んだが、ブーンは女子供が捕虜になっても冬の道を歩いてくることはできないと言って、ブラックフィッシュを納得させた。ブーンは、春になればブーンズボロはショーニー族に進んで降伏させると約束した。ブーンはショーニー族にブーンズボロ攻撃を思いとどまらせるためにありとあらゆることを言ってその場を繕った。ブーンは隊員達にその思いを伝える機会が無かったので、隊員の多くはブーンがイギリスに寝返ったと結論づけてしまった。 ブーンと隊員はブラックフィッシュのチリコシーの町に捕虜として連れて行かれた。ショーニー族の慣習に従えば、戦死した戦士と引き替えに、捕虜の中の数人が部族と養子縁組することになっていた。それ以外の者はデトロイトに連れて行き、ハミルトンから 捕虜または頭皮と引き替えに報奨金を受け取ることができた。ブーンはチリコシーでショーニー族の家族と養子縁組した。おそらくはブラックフィッシュ酋長その人の家族とだったと考えられている。「大きなカメ」を意味するシェルトウィーという名前を与えられた。ブーンは他の養子達と同様に密に見張られていたが、最後は逃げ出すことができた。1778年6月16日、ブラックフィッシュが大部隊と共にブーンズボロ攻撃に戻ってくる準備をしていることを知ったブーンは、その捕獲者のもとから逃げだし、砦に急行した。ブーンズボロまで160マイル (260 km) の道のりを5日間で走破した。 ブーンが砦に戻ると、守備隊員の中にはブーンの忠誠心について疑義を表明する者がいた。ブーンの塩確保部隊が降伏した後の数か月間、ブーンはショーニー族の中で全く幸せそうに生活しているように思われたからだった。それに対してブーンは、オハイオ川の対岸、ショーニー族のペイントリックの集落に先制攻撃を掛けることで、反応した。その襲撃はあまり成果が無く、ブラックフィッシュが南に動き出したことが分かって、急遽ブーンズボロに戻った。
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