スポーツ官僚へ
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「ジャン=クロード・キリー」の記事における「スポーツ官僚へ」の解説
1977年、キリーは国際スキー連盟 (FIS) のアルペンスキー委員会メンバーに就任し、新たにスポーツ官僚としてのキャリアをスタートさせた。キリーはこの後、1994年までFISに籍を置くことになる。1981年末、盟友であるサヴォワ県選出の国民議会議員ミシェル・バルニエとともに「サヴォワ県で冬季オリンピックを開催して県の経済発展を支援する」との考えを固め、1983年1月、アルベールヴィルが1992年のオリンピック開催地に立候補することを正式に発表。その後、1992年の夏季オリンピック開催候補地にパリが名乗りを上げたため、同じフランスであるアルベールヴィルの招致活動は一時危うくなったが、夏季オリンピックの開催地がスペイン・バルセロナに決定したことで、招致の可能性が復活。1986年10月、アルベールヴィルの当選が決定した。 キリーは、バルニエとともに1987年2月24日に発足したアルベールビルオリンピック組織委員会の委員長に就任したが、そのわずか13日後、「投資配分において彼の故郷であるヴァル=ディゼールを優遇しすぎている」との抗議を他の自治体から受けたことを理由に辞任。フランソワ・ミッテラン大統領と国際オリンピック委員会 (IOC) のフアン・アントニオ・サマランチ会長が再考を求めた結果、キリーは1988年3月30日に再び組織委員長の席に戻った。オリンピックは競技の面でも、また経済面でも成功をおさめたが、それぞれの競技会場がお互いに離れすぎていることと、会場周囲の自然環境に悪影響を与えたことへの批判も受けた。 アルベールビルオリンピックの仕事の後は、1993年から2001年まで、スポーツマーケティング企業のアモリ・スポル・オルガニザシオン (ASO) の代表の座にあった。ASOはパリマラソンやパリ・ダカール・ラリー、ツール・ド・フランスなどといったレースの主催者であり、キリーは1994年から2000年までジャン=マリー・ルブランと共同でツール・ド・フランスのディレクターも務めていた。 1995年、IOCのメンバーに選出される。IOCでは1998年長野オリンピックで調整委員、2002年ソルトレークシティオリンピック組織委員会副委員長(1996年 - 2002年)、2006年トリノオリンピック組織委員長(2000年 - 2006年)を歴任し、また2007年からは2014年ソチオリンピックの調整委員長を務めた。2012年の夏季オリンピック開催地にパリが立候補した際もキリーは個人的に支援を行なったが、この時はロンドンの前に敗れた。ヴァル=ディゼールでの2009年アルペンスキー世界選手権では当初組織委員長の座にあったが、政界からの支援が不足していることと新たなメディアセンターの建設の遅れに抗議して、2007年6月に辞任した。その後は、ニースが2018年冬季オリンピックの開催地候補に立候補した際に支援をした。自ら準備状況を監督したソチオリンピック閉幕後の2014年3月28日、70歳という高齢などを理由にIOC委員を辞任した。 1991年、ティエリー・デュサール (Thierry Dussard) によるキリーの伝記『Jean-Claude Killy』が出版された。1999年に20世紀スポーツ選手賞 (World Sports Awards of the Century) においてウィンタースポーツ部門で選出され、2000年にはレジオン・ドヌール勲章(グラン・トフィシエ)を受章。 ヴァル・ディゼールとティーニュにまたがるスキー場には、キリーの栄誉を称えて「エスパス・キリー」(キリーの地)という愛称が1992年につけられている。
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