ストックホルムでの生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:51 UTC 版)
「リーゼ・マイトナー」の記事における「ストックホルムでの生活」の解説
マイトナーはストックホルムのマンネ・シーグバーンのもとで原子物理の研究を続けた。 ストックホルムでは、住まいが決まるまでの間、ホテルで暮らしていた。生活は厳しいものであった。財産のほとんどを持たずに亡命してきたマイトナーは、始めのうちは生活にも苦労した。ドイツに残してきた私物は後にハーンらにより届けられることとなったが、煩雑な手続きのため到着が遅れ、マイトナーの元に着いたのは1939年4月のことだった。1939年5月からは、ストックホルムに住んでいた姉夫婦(フリッシュの両親)のもとで生活した。 ドイツ時代に行っていた実験はハーン、シュトラスマンの手により続けられ、マイトナーとは手紙で実験の進み具合や今後の方向性などをやり取りしていた。1938年、マイトナーはハーンから「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるバリウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を受け取った。これは今までの理論では起こり得ない結果であったため、一緒にこの手紙を読んだ甥のフリッシュは、実験のミスではないかと言ったが、マイトナーは、ハーンがこのような間違いを犯すとは考えにくいと答えた。そしてフリッシュと共に、この実験から核分裂が起きたと解釈して連名で発表し、fission(核分裂)と命名した。なお、これが核兵器の開発につながっていくことになるが、マイトナーは1943年、英国の科学者に核兵器の開発への協力を求められたとき、「爆弾に関わるつもりはありません」と断っている。 一方、シーグバーンの研究所ではマイトナーは孤立していた。研究所はサイクロトロンなどの大型設備が整っていたが、マイトナーに十分な実験装置や人員が与えられることはなかった。慣れ親しんだベルリンの地を離れ、新しい地で孤独な生活を送ることとなったマイトナーは疎外感を味わった。ハーンやエリザベートらと手紙のやり取りは行っていたが、マイトナーは誰も自分の気持ちを分かってくれないと思うようになっていった。
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