スズキとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 01:48 UTC 版)
1960~1970年代半ばまでは4ストロークエンジンを主力とするホンダ、北米ではホンダ・カワサキ車のチューニングを手掛けていたが、1976年に初めて4ストロークレーサーを手掛けたスズキが吉村の腕を見込んで提携。以降ヨシムラのレース活動ははスズキ一色に染まっていく。全日本ロードレース選手権では、4ストロークエンジンのオートバイが参戦するTT-F1クラスやスーパーバイククラスを経て現在はJSB1000クラスを主戦場としており、ヨシムラとは別にスズキ本社でワークス・チームを組織して参戦した1990年代の一時期を除いて、スズキの実質的ワークス・チームとして機能している。 またスズキのレース用キットパーツなどプライベーター向け部品の開発と製造も請け負っている他、ヨシムラトルネード1200ボンネビルなど、ヨシムラオリジナルパーツを組み込んだ公道走行可能なコンプリート車両も度々販売している。ただし一般車用パーツに関してはその限りではなく、スズキ以外の車両用のパーツも製造販売している。 スズキ・GS1000Rで出場した第1回・第3回鈴鹿8時間耐久ロードレースで優勝し、ワークス・チームを退けてのチューナーチームによる優勝により同レースへの注目と関心を集めた。その後はしばらく優勝がなかったが、加藤陽平新監督就任の初年度である2007年の第30回大会で久々の優勝を果たし、2年後の2009年、スズキ・GSX-R1000で参戦した第32回大会で通算4度目の優勝を手にしている。 長年全日本ロードレース選手権に参戦していたが、スーパーバイク世界選手権(WSBK)への挑戦のため、2009年に一度活動を休止(プライベーター支援は継続)。2010年からクレセント・スズキを支援する形でのWSBKへのスポット参戦が発表されたが、資金難のために実際の参戦はモンツァへの1戦に限定され、2011年もポルティマオへのスポット参戦にとどまった。2012年からフル参戦を果たすが結局芳しい成果を上げるには至らず、2015年末を持ってSBKから撤退した。なおこれに先立ち、ヨシムラは2013年から全日本に復帰している。 2021年、テクニカルパートナー契約を締結しているフランスのSERT(Suzuki Endurance Racing Team)の要請に応じて関係を強化し、スズキのワークス・チーム「ヨシムラSERT MOTUL」としてFIM世界耐久選手権に参戦。ル・マン24時間とボルドール24時間で勝利し、初年度でチャンピオンを獲得した。 北米でもスズキのワークス・チームとして40年以上に渡り活動しており、AMAスーパーバイク/MotoAmericaのスーパーバイククラスにおいて史上最多勝利・チャンピオン数を記録している。後にスーパーバイク世界選手権王者となるベン・スピーズも、ヨシムラ・スズキ出身のライダーである。
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