スクリブナー社での編集生活
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「マックス・パーキンズ」の記事における「スクリブナー社での編集生活」の解説
1909年の冬、記者を辞めて勤務時間が固定された仕事に就きたいと考えていたパーキンズは、チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社(以下スクリブナー社)の宣伝部に欠員があることを聞きつけた。スクリブナー社長のチャールズ・スクリブナー(英語版)は、ハーバード時代の教授と旧友であり、パーキンズはこの教授へ頼み込んで推薦状を書いてもらっている。 パーキンズは翌1910年にスクリブナー社へ入社し、死去する1947年まで37年同社に勤め続けた。パーキンズが入社した当初のスクリブナー社は、話題の作家には目もくれず、イギリス風の伝統を重んじた作家の作品を出版し続けるやや古風な出版社であった。彼は入社から4年半ほど宣伝担当マネジャーを務めた後、編集者の1人が他社の共同経営者になるため辞職したのを契機に編集室へと異動した。 パーキンズは、フィッツジェラルドなど多数の人気作家を世に送り出したことで一目置かれ、1920年代前半には、有望な原稿は多くが名指しでパーキンズの元へ集まるようになっていた。彼の活躍まで、編集者の仕事は名作の再版、有名作家の原稿での綴りや句読点の細かな校正、宣伝文作りなどが中心だったが、パーキンズはその慣習を打ち破って前途ある作家を積極的に登用した。編集者を始めて15年後には、収入が1万ドルへ倍増していただけでなく、経営者のスクリブナー兄弟から自由に仕事をするよう一任されていた。1930年頃、彼はスクリブナー社の役員となったほか、編集局長のポストにも就いて、名実ともにスクリブナー社に欠かせない人物となった。ウォール街大暴落から始まった世界恐慌では出版業界にも不況が訪れたが、スクリブナー社はパーキンズの編集した本などで売り上げを維持した(例えばS・S・ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』やヘミングウェイの『武器よさらば』など)。1932年夏にアーサー・H・スクリブナー (Arthur Hawley Scribner) が死去した後、パーキンズは編集長兼副社長に就任した。 パーキンズは、原稿を丁寧に読み込んで助言し、純文学・ミステリーなどのジャンルにかかわらず、質の高い作品を作者に求める編集姿勢を貫いた。原稿を丁寧に読み込んで助言するというのは、先述のように作品にほとんど関与しなかったそれまでの編集者とは大きな違いであった。彼の関心は、同僚ジョン・ホール・ホィーロック(英語版)の言葉を借りれば、「アメリカの作家の才能を育て、アメリカ文学を発展させること」にあった。
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