ジョー・シーウエル
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「1930年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ジョー・シーウエル」の解説
10年前の1920年の8月にクリーブランド・インディアンスのレイ・チャップマン遊撃手が対ヤンキース戦でカール・メイズ投手が投げた球を頭部に受けて昏倒し、翌朝死去した事件があったが、この事件はインディアンスの選手を奮起させて、リーグ優勝とワールドシリーズ制覇につながったとされている。そしてもう一つ忘れてならないのは、亡くなったチャップマンの代わりに窮余の策として当時のトリス・スピーカー監督がマイナーから引き上げた選手がジョー・シーウェルで、スピーカー監督が驚くほど意外にシーウェルは活躍し、そしてそれからレギュラーで10年間インディアンスの遊撃手として出場したことであった。鋭い選球眼を持ちバットコントロールが巧みで、三振の少ない選手であった。1923年に打率.353で打点109をマークしタイトルには届かなかったが、1925年から9年連続で三振が一桁台であり1929年にはフル出場で三振4、そして115試合連続無三振という記録を打ちたてた。1922年から連続試合出場を続け、この1930年の途中1103試合連続出場までいってメジャーリーグ記録(エベレット・スコットの1307試合)に近づいたが惜しくもこの年の途中でヤンキースへトレードされて出番がなく、連続試合記録は途絶えた(この記録は1932年に同じチームになったルー・ゲーリッグに破られた)。 シーウェルはまた空前絶後の記録を持っている。1920年から引退した1933年まで14年間をたった1本のバットで使い切ったことである。ケンタッキー州ルイスビルのヒラーリッチ・ブラッズビー社が製造した「ルイスビル・スラッガー」はメジャーリーガー御用達のバットとして定評があり、シーウェルもこの「ルイスビル・スラッガー」の40オンス・1132グラムの重さのバット(大抵の選手は32オンス・900グラム以上のもの)を14年間折らずに使った。何故折れずに使えたのかとの質問にシーウェルは「正しいスイングと大切な手入れ」とその理由を述べ、バットに押してあるメーカーの焼き印(トレードマーク)のところで球を打たないこと(この部分には傷一つ無かった)、手入れは木目を締めるため牛の骨でこする伝統的なやり方でなく「鶏の骨でこすり、噛みタバコで磨き、それから空きビンでバットを擦ってすべすべにする」作業を毎日慎重に行ったという。14年間の通算打率.312、通算三振はわずか104で、1977年に殿堂入りした。殿堂入りにあたってバットも一緒に展示したいと博物館側が申し入れたが、79歳のジョー・シーウェルは固辞した。「私の腕を博物館に渡せるものか」老シーウェルにとって古びたバットは身体の一部だった。
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