ジョン・スミスによる逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/25 04:54 UTC 版)
「ポウハタン酋長」の記事における「ジョン・スミスによる逸話」の解説
ジョン・スミスはイギリスに戻った1624年になって突然、「1607年12月、ポウハタン酋長の弟であるオペチャンカナウらの狩猟遠征隊に捉えられ、ヨーク川沿いにあったポウハタン族の村である「ウェロウォコモコ」に連行された。ここで百叩きの刑で殺されるところを、ポウハタン酋長の幼い娘であるポカホンタスが命乞いの懇願をしてくれたおかげで、その父であるポウハタン酋長はこの処刑をやめさせた」と吹聴し始めた。 しかし、スミスが1608年と1612年にロンドン議会に提出した報告書では、このいきさつに全く触れておらず、多くの歴史家はその真実性に疑問を投げかけてきた。この「処刑」は部族の中にスミスを受け入れるための儀式だったと考える者もいる。またこの武勇伝の「元ネタ」は、すでにこの報告の半世紀前に、南東アメリカで略奪行を行ったスペイン人のエルナンド・デ・ソトの見聞録のなかに見られるものである。 スミスは「ポウハタン酋長が彼の処刑を命じた」と書いているが、そもそもインディアンの酋長は「指導者」ではなく、またインディアン社会に「処刑を命じる」ような権力者はいない。また、これが「儀式」だったとすれば、これを取り仕切るのは呪い師であって、酋長ではない。ポウハタン酋長が部族民にスミスの「処刑」を「命令する」というのもインディアンの社会ルールからして不自然である。 また、イギリス人が1607年にポウハタン領土を侵犯して上陸したすぐあとに、ポウハタン族は和平の儀式を交わしており、彼らがこのような拉致連行を行う理由が無い。実際にインディアンたちは彼らの共有文化に則って、侵略者たちに気前よく贈り物をし、食糧を分け与えているのである。 また、どんな儀式であろうと、幼い子供の参加は許されていない。当時10歳程度のポカホンタスがその場にいたということ自体がありえない話である。ようするにスミスはステレオタイプな思い込みだけでインディアンの社会を解釈し、自らの立身出世のためにこのような作り話を捏造したのである。 ポウハタン族は自身の公式サイトで、このスミスの逸話を「根拠のない作り話」と断定している。
※この「ジョン・スミスによる逸話」の解説は、「ポウハタン酋長」の解説の一部です。
「ジョン・スミスによる逸話」を含む「ポウハタン酋長」の記事については、「ポウハタン酋長」の概要を参照ください。
- ジョン・スミスによる逸話のページへのリンク