ジャンク・アート、反芸術の世界同時多発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 19:06 UTC 版)
「ネオダダ」の記事における「ジャンク・アート、反芸術の世界同時多発」の解説
この時代には、同じく廃物を寄せ集めた芸術作品や、従来の美術の範疇をはみでたハプニング、パフォーマンス、「反芸術」的な潮流が、工業化した欧州や日本など各国に現れた。 フランスではこの頃、収集した生ゴミを透明ケースに入れたり、同じ種類の機械や道具の残骸を無数に収集して組み合わせたアルマン、くず鉄を寄せ集めて溶接した「アマルガム彫刻」や自動車をプレス機に入れて直方体に圧縮する「圧縮彫刻」を行ったセザール、日用品などを梱包していたクリストら、工業社会の「自然」をあるがままに受け容れそこに意味を見出そうとする作家たちが活躍していた。1960年、こうした傾向の作家たちを集めて評論家ピエール・レスタニによる展覧会が行われ、これに、さまざまなパフォーマンスを行っていたイブ・クラインや、ジャン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファルらが集まり、「ヌーヴォー・レアリスム」というグループを組んだ。グループは数年で解体したが、その思想や活動はネオダダと通じ合うものがある。 ドイツでは美術家や音楽家、詩人などをメンバーとするパフォーマンスアートのグループが現れ、1961年にフルクサスの名が使われた。流転・変転し、二度と同じ事を繰り返さないと言う彼らのパフォーマンスは各国の芸術家を巻き込み、1960年代前半にかけてドイツやアメリカなどで非常に活発に活動した。 日本でも反芸術の動きが1960年前後に活性化していた。1954年から関西に具体美術協会が現れ、1950年代後半にかけてアクション・ペインティングや野外におけるインスタレーションなど矢継ぎ早に活動を行った。ここにはネオダダ的な身近な素材の利用やハプニング、反芸術の要素が多く含まれていた。 また、1950年代後半ごろから、東京都美術館で行われていた無審査公募展「読売アンデパンダン展」に廃物などを利用した作品が数多く出展されるようになり、1960年に評論家・東野芳明がこの展覧会に出展していた工藤哲巳の作品を評して「反芸術」の語を使用し日本の若手美術家に反芸術ブームを起こした。 1960年、荒川修作・吉村益信・篠原有司男・風倉省作(風倉匠)・赤瀬川原平ら、読売アンデパンダン展に出展していた若い作家たちがネオ・ダダイズム・オルガナイザーズという組織を結成。その後「ネオダダ」と名称を簡略化し、3度の展覧会を実施したが、荒川修作の除名問題や吉村益信の結婚による活動場所の問題を経るなどわずか1年たらずで解体する。しかし、その間に社会風俗現象として週刊誌などマスコミを大いに賑わせ、一部美術評論家に注目されるアナーキーな作品や構想を数多く残し、スキャンダリズムを旨とする日本の前衛美術のひとつの傾向を示す典型となった。 その後メンバーの大半が渡米したが、赤瀬川原平は1963年に高松次郎・中西夏之と「ハイレッド・センター」を結成し反芸術的なパフォーマンスを開催し、篠原有司男らは新たなアメリカの動向であったポップ・アートにいち早い反応を見せた。
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