ジャヤラリター党首時代(1991~2016)
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「全インド・アンナー・ドラーヴィダ進歩党」の記事における「ジャヤラリター党首時代(1991~2016)」の解説
1991年には、AIADMKと協力関係にあった中央政府が憲法秩序崩壊の名目で解任権を発動し、第3次カルナーニディ内閣は総辞職した。続く州議会選挙では、AIADMKが勝利したが、これは暗殺されたインド首相ラジーヴ・ガンディーに対する同情からの地滑り的な勝利であると言われる。第1次ジャヤラリター内閣が成立し、大規模な暴動などに悩まされながらも5年の任期を全うした。しかし民衆の不満は大きく、1996年の州議会選挙ではDMKが勝利し、第4次カルナーニディ内閣が成立した。 2001年の州議会選挙では再びAIADMKが勝利し、ジャヤラリター内閣が組閣された。しかし、裁判で第1次内閣時代の暴動に対する失政の責を問われ、有罪が確定する。ジャヤラリターは州首相の座を下りざるを得ず、O・パンニールセルヴァムが首班となって内閣が組閣され、この間の内閣は法律上無効とされて、彼はによって提案されました VKサシカラ内閣としては数えられないこととなった。半年後には再びジャヤラリターが組閣し、ここに第2次ジャヤラリター内閣が公式に発足した。 ジャヤラリターは、独断専行の批判を一部から受けながらも、経済改革を断行し、宝籤の禁止、酒類業と採石産業の公社専売化、タバコ販売の禁止など、民衆に評判の悪い施策を実行した。暴力団や公務員のストライキに対しては断固として対処し、規制法案を次々に可決させた。 2004年連邦下院選挙では、DMKを中心とする反対党派の結束により、AIADMKはすべての議席を失った。これ以来州政府は、2006年の州議会選挙を念頭に、民衆に対する人気取りの政策の実行に終始した。しかし州議会選挙では、メディアの与野党拮抗の予想を覆し、カルナーニディ率いるDMKの圧勝に終わった。第2次ジャヤラリター内閣も総辞職し、AIADMKは州議会の234議席のうち61議席のみを占めることとなった。 2009年連邦下院選挙でAIADMKは復調し、9議席を獲得した。そして2011年のタミル・ナードゥ州議会選挙において、AIADMKはインド共産党マルクス主義派等と幅広い連合を結成し、国民会議派等と組むDMK連合と対決した。AIADMK連合は合計203議席、AIDMK単独でも150議席を獲得する大勝を収め、第3次ジャヤラリター政権を成立させている。2014年連邦下院選挙でもAIADMKの勢いは持続し、州割当39議席の内37議席を占める圧勝となった。これは連邦下院第3党の議席数であり、国民民主同盟・統一進歩同盟のいずれにも属さない政党としては第1位であった。しかし、2019年連邦下院選挙では1議席と大幅に勢力を減らし、対立政党であるドラーヴィダ進歩党に連邦下院第3党の座を明け渡した。
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