ジャライルタイ軍侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)
「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「ジャライルタイ軍侵攻」の解説
モンゴル帝国は後に高麗朝廷上層部の江華島残留を知り処罰した。その後1253年から1258年にかけて、罷免されたイェグに代わって征東元帥に任じられたジャライルタイ配下のモンゴル軍は、貴人と官吏のみが要衝へ立て籠ったため多くが放置されていた高麗領へ、6年に渡り断続的な破壊・略奪を行う第6次侵攻が開始された。 この第6次侵攻は小休止を挟んで4度の波があったが、渡る第一波となった1254年には206,800余人の高麗人が捕虜となり、殺された者は数えきれず、「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を蔽う」といった惨状を呈したという。
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