ジェイムズ・G・ブレイン
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「1880年共和党全国大会」の記事における「ジェイムズ・G・ブレイン」の解説
共和党公認候補のもう一人の有力者はジェイムズ・G・ブレインだった。ブレインはメイン州選出のアメリカ合衆国上院議員であり、もとは同下院議員であり、グラントの指名を妨げる有力候補の位置にあった。4年前の1876年にもブレインは党の指名を得ようとした。その年の党中央大会の数週間前、鉄道株に関わる不正行為を行ったと告発された。ブレインが行ったことの詳細がマリガンの手紙に書かれていた。ブレインは下院の議場で自己弁護を行い、手紙の犯罪に関わらない部分を選び編集して読み上げた。この汚名を雪ごうという努力にも拘わらず、ブレインの政歴の残り期間はこのスキャンダルがついて回ることになった。オハイオ州シンシナティで投票が始まる前の日曜日、ブレインはワシントン会衆派教会の階段で躓いた。2日間意識を無くしており、その結果、その健康を疑い、大統領職が勤まるかを懸念した支持票を失った。ブレインは「ニューヨーク・サン」のような敵対者にも冷笑されていた。その大見出しでは「ブレインが気を失った振りをしている」と書かれた。1876年党大会での第1回投票で、ブレインは285票を得た。政敵であるロスコー・コンクリングが第2位で99票だった。ブレインとコンクリングは1866年の下院議場での討論に始まる長い政敵だった。投票がさらに6回続いても決着がつかなかった後、コンクリングはラザフォード・ヘイズに支持先を変え、最後はヘイズがブレインを破って指名を得た。 1876年にブレインが失敗した後、その支持者達は1880年のシカゴの大会で大統領になるつもりがあるなら、指名される必要があると考えた。もし2回立候補して共に敗れた場合、その次は無いと見られていた。その選挙参謀としてウィリアム・E・チャンドラーは「かれは6月にシカゴで指名されなければならない。さもなければこの国の最高執政官になる考えを諦めなければならない。彼の成功のために全てを犠牲にする用意がある国中の友人と彼自身にそれは掛かっており、シカゴで勝利を掴むかである。」と語っていた。 ミリガンの手紙のスキャンダルがあったにも拘わらず、ブレインは1880年の選挙戦でうまく立ち回り、その立候補については全国的な支持を得ていた。ブレインは金本位制、大企業、アメリカの公務員を保護する関税、解放黒人の公民権、さらにはアイルランドの独立を支持していた。
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メイン州選出のアメリカ合衆国下院議員 |
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