サンキャスの戦いとは? わかりやすく解説

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サンキャスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 05:49 UTC 版)

ジョシュア・ロウリー」の記事における「サンキャスの戦い」の解説

詳細は「サンキャスの戦い」を参照 1758年、ロウリーは海峡艦隊ジョージ・アンソン合流しフランス沿岸遠征臨んだ。 この1758年9月始め行われたブルターニュへの遠征は、かなり重要なのだったアンソン指揮下のイギリス海軍准将リチャード・ハウ援軍受けており、陸軍中将トマス・ブリー(英語版)が指揮していた。この遠征には22からなる艦隊と9隻のフリゲート艦、そしてハウ指揮下の3等艦1隻、4等艦4隻、10隻のフリゲート艦、5隻のスループ艦、2隻の火船、2隻の臼砲艦もいた。当初遠征軍シェルブールの港を攻略し大きな成功収めたイギリス軍はこの港やドック停泊していた船舶破壊し多く軍需物資物品持ち運んだ壊したりした。 その後イギリス軍艦隊は、サン・マロから12マイル(約19キロ)西のサンルネールに到着し9月5日に、ウィリアム・ブースビーと5個の近衛歩兵中隊がサンブリアに行軍し、そこで船を何隻か破壊したブリー中将は陸からサン・マロ攻略する作戦出た。しかしイギリス軍物資が底をつきかけており、またサン・マロ防御固く攻略難しかった天候はより悪化しハウはサンルネールの停泊地を去らざるを得なくなって、数マイル離れたサンキャス湾の西に艦隊動かした。 この時、ブルターニュ部隊指揮官であるデギュイヨン公爵エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー12ばかりの歩兵大隊集めていた。これらの勢力加え1万人にも及ぶ大軍勢が、オービニュ侯爵指揮のもと、ブレストから急ぎ足でサンキャス(コート=ダルモール県の町)に向かっていた。ブリー撤退のため9月11日午前3時宿営地離れ、9時前にサンキャスの海岸着いた。これには必要以上に時間かかった午前9時に乗船始まり11時には3分の2が船に乗り込んだその時フランス軍現れ海岸連続砲撃始めた乗船混乱をきわめ、イギリス軍パニック状態となったフランス軍海岸イギリス軍退路塞ぎ3つの旅団一列配置しもう一つ旅団予備投入した海上でも5隻のフリゲート艦、そして臼砲艦イギリスの退却阻もうとしており、イギリス砲撃一度優勢に立ったが、小高い砲撃はうってつけの場所にあるフランス砲台からの砲撃が、イギリス軍フリゲート艦追い払い兵士大勢乗り込んでいた3隻の上陸用ボート沈めたそれ以外の上陸用ボート海岸壊された。イギリス近衛歩兵第一連隊敵軍突破している間、1400人の兵と750人の士官から成る後衛部隊反撃出ようとしたが、ジョン・フォーテスキューによると、後衛部隊の兵たちは死傷し残りの兵たちも捕虜となった。ロウリーはこの時負傷して浜辺取り残された。他の大尉、マプレスデン、パストン、そしてジョン・エルフィンストーン共々、彼は浜辺捕囚された。 多く人命軍事物資失われ七年戦争での、イギリスブルターニュ侵攻の夢は閉ざされた。イギリス陸軍海軍双方にとってこの戦い恥ずべきこととなった.。

※この「サンキャスの戦い」の解説は、「ジョシュア・ロウリー」の解説の一部です。
「サンキャスの戦い」を含む「ジョシュア・ロウリー」の記事については、「ジョシュア・ロウリー」の概要を参照ください。

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