サスケハナ計画、『抒情民謡集』
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「サミュエル・テイラー・コールリッジ」の記事における「サスケハナ計画、『抒情民謡集』」の解説
1793年に『モーニング・クロニクル』誌に初めて詩が掲載される。1794年にウェールズに旅行し、途中立ち寄ったオックスフォードでロバート・サウジー、トマス・プールらと知り合い親しくなった。この頃はフランス革命に共鳴し、サウジーらとともにアメリカ大陸のサスケハナでの理想の平等社会「万民同権共同体(パンティソクラシー)」の建設を計画していた。既にアメリカに移住していたジョゼフ・プリーストリーから土地の斡旋を受けて、1795年に出航する予定だったが、資金不足で断念し、また考えの違いからサウジーとも別れる。資金集めの際に寄留したブリストルのフリッカー家の娘姉妹の一人、セアラ・フリッカーと婚約。フリッカーの娘姉妹とは仲間のうちコールリッジやサウジーら三名が結婚することになる。また、政治、宗教の面で急進的な思想を抱き、素行問題から大学を退学となった。 1795年にセアラと結婚し、ブリストル近くのクリーヴドンに新居を構えた。結婚後、妻のセアラなどに語りかける形式の「会話詩」を創作するが、やがて収入不足に陥り、政治宗教の週刊誌『見張り人』(The Watchman)を発行するも、読者が付かず10号で廃刊し、家庭教師やドイツ文学の翻訳などで生計を立てる。1797年に、トマス・プールを頼って住んでいたネザー・ストーウェイの住居をワーズワース兄妹が訪れ、意気投合して合作詩集を作ることになり、『老水夫行』を巻頭に1798年『抒情民謡集』(Lyrical Ballads)を刊行し、イギリス・ロマン主義の詩人として名声を得る。 1798年にウェッジウッド兄弟から研究助成金の申し出を受け、ワーズワースとともにドイツ留学に発つ。翌年からゲッティンゲンの大学に籍を置き、7月に帰国。1800年に『クリスタベル姫第2部』を書き上げたが、ワーズワースから『抒情民謡集』第2版への掲載を拒否され、詩作への意欲が減退。また、持病のリウマチ熱の痛み止めのために使っていた阿片への依存が増し始める。
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