コール政権下の野党時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)
「ドイツ社会民主党」の記事における「コール政権下の野党時代」の解説
その後16年近く続いたキリスト教民主同盟のヘルムート・コール政権の下で野党の座に甘んじた。1984年5月のエッセン党大会で党首ブラントは「ゴーデスベルクにおいてコンセンサスとなっていた社会民主主義の解釈は、もはや機能していない」と演説し、綱領改正への意欲を示した。そして彼を委員長とする綱領委員会を設置された。党内が多様化していたために様々な異論が出され、またブラントの辞任の混乱もあって、5年に及ぶ長い党内論争を経ることになったが、1989年12月のベルリン党大会においてベルリン綱領(ドイツ語版)が採択された。この綱領には当時大きな争点になりつつあったエコロジー問題への対応をはじめ、様々な課題を盛り込んだ。一方でこの綱領は長大で包括的だが断片的という「デパートのカタログ」としての性格が強かった。 野党時代にも東ドイツの社会主義統一党との対話を進め、1987年8月には両党で体制間の平和競争を謳う「イデオロギー競争と共通の安全保障」という共同文書を発している。 1980年代には緑の党の出現もあって社民党の党員の減少傾向が続いた。1990年の連邦議会選挙に社民党は敗北し、その後党首となったビョルン・エングホルムは、1993年に『SPD 2000 - SPDの現代化』という党組織改革の報告書を発表し、同年の党大会で採択された。この報告書は「市民が政党に接触する垣根を下げる」「党員の参加可能性の強化」として一般党員の直接投票制度の導入を謡っていた。具体的には連邦議会・地方議会問わず選挙の党候補、および連邦議会選挙のたびに党首と別に選出される首相候補を一般党員の投票で決めること、また政策形成についても10%以上の党員から請願があった時には党員協議会を設置し、諮問的な党員投票を行うことが盛り込まれていた。しかし党首がルドルフ・シャーピングに代わったことなどもあって、その後も継続的に行われた一般党員の直接投票制度は首相候補予備選挙のみであった。
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