コール市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 10:11 UTC 版)
「コーコモー (インディアナ州)」の記事における「コール市長」の解説
1881年、コーコモーの歴史で最も注目すべきまた議論の多い出来事が起こった。ヘンリー・C・コール市長が、保安官の自警団に撃たれて殺された。コール博士には奇妙な過去があり、最近15年間はかなりの情熱を注いでいた。南北戦争のときに北軍の軍医を務めて優れた外科医という評判があり、その後にコーコモーに移って著名な医者になった。コーコモーではナタリーという女性と結婚したが、その妻についてコールはひどく焼きもち焼きだった。コールはアレンという男を疑うようになり、コーコモーから立ち去るよう警告していた。1866年10月のある日、アレンが郵便局を出て行くところをコールが見つけて、拳銃で射殺した。殺人が白昼に行われたことと、コールが倒れたアレンを打ち続けた冷血さの双方で、全国的な注目を浴びることになった。コールの裁判はティプトン郡で行われ、テレホートのダニエル・W・ヴォーヒーズを弁護人に選んだ。ヴォーヒーズは心神喪失を理由に無罪を勝ち取った。その後コールは妻と離婚した。 コールが暴力について不安定な状態にあり、アレンを殺したときの臆病さについての評判で、多くの敵を作ったが、貧しい患者に対しては寛大であり、町を「綺麗にする」という公約で、接戦となった1881年の市長選を勝ち抜くことができた。当選から間もない1881年9月19日、ウェストジェファーソン通りのオールドスプリングミルズで、保安官の自警団に撃たれて殺された。検死官の報告では、副保安官ジョージ・ベネット(ニューヨークの舞台アイドル、リチャード・ベネットの父)からショットガンで撃たれた傷で死んでいた。保安官の話では、コールがおそらくその敵を陥れるために製粉所を襲撃することを計画していたという情報を得ていた。自警団は正当防衛(保安官はコールがレボルバーを2挺持っていたと主張した)およびコールの逃亡を阻止するためにコールに向かって発砲を強いられたが、コールの傷はその話とは矛盾するものだった。コールの支持者は、レボルバーも強盗に使うような道具も提示されてはおらず、動機についても信じがたいと論じた。それでもベネットや自警団の他の者に対して法的な手続きは採られなかった。
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