コーデックスIとIII以外の行方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:13 UTC 版)
「ナグ・ハマディ写本」の記事における「コーデックスIとIII以外の行方」の解説
一方、無価値だと思ったか、もしくは災いを招くと思ったかして、ムハマンドの母親は写本の一部を、わらと一緒に炊きつけとしてかまどで燃やしてしまった。現在わずかの断片しか残っていないことから、コーデックスXIIが燃やされたものと見られる。また、中には捨ててしまったものもあった。コーデックスIII以外の写本は、近隣の文盲のムスリムとの物々交換に使われたり二束三文で買われたりしていった。 写本を手に入れた者の1人がナシド・バサダ (Nāshid Basādah) で、ナグ・ハマディの金商人と計ってカイロで写本を売り、代金を山分けした。また、伝えられるところでは、ある穀物商(アル・カバルの複数の村人によると、フィクリー・ジャバライル (Fikrī Jabarā'īl) のことだという)が別の写本を手に入れてカイロで売り、手に入れた代金でカイロに店を構えたとも言われている。この話はよく知られているらしいが、フィクリー自身は断固として関与を否定している。 写本の大部分を手に入れたのはバヒジ・アリ (Bahīj ʽAli) で、アル・カスル村のならず者だった。この地方では有名だった古物商と一緒にカイロに行き、まずシェファード・ホテルのマンスーアの店に行き、次にカイロ在住のベルギー人古物収集家フォキオン・J・タノ (Phokion J. Tano) の店で売った。タノは全て買い取り、また、ナグ・ハマディにまで出かけて残っている写本を全て入手した。 一方、コプト博物館長(当時)のトーゴ・ミナ (Togo Mina) はタノが写本を買い取ったことを聞きつけて、国外流出はさせない、写本は全て博物館に売れと説得した。1948年、エジプト公教育省はタノと交渉して、写本を買い取りコプト博物館に収納しようとしていた。しかし、タノは、写本はカイロ在住のイタリア人収集家ダッターリのものであると主張して政府の介入を避けようとした。国外流出を防止するためにエジプト考古最高評議会(考古最高評議会の前身)はダッターリ所有の写本を接収した。写本は、1948年にコプト博物館に保管された。ダッターリは対価として十万ポンドを要求したが、政府は一切支払わなかった。そのため、所有権がどちらにあるのかエジプト政府とダッターリの間で裁判沙汰となり、1952年まで争われた。裁判は政府側の勝訴に終わった。 ナセルが大統領になってからは、4千ポンドの形ばかりの代価と共に写本は国有化され、最終的にコプト博物館の所有物になった。この段階でコーデックスIを除く写本がコプト博物館に収納された。
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