コンスティチューションの追跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/03 15:34 UTC 版)
「USSコンスティチューション対HMSゲリエール」の記事における「コンスティチューションの追跡」の解説
コンスティチューションは戦争が勃発した時に、アナポリスにあって新しい乗組員を集めており、3週間は航行できない状態だった。その艦長であるアイザック・ハルが航海できるようになった時に、ハミルトン長官の命令に従ってニューヨークを目指した。1812年7月17日午後遅く、ニューヨークの近くで、4隻の船舶が西に航行しており、別の1隻がコンスティチューションに真っ直ぐ向かってくるのを目撃した。ハルはその船がロジャーズ戦隊のものかと思ったが、注意して見ていた。その後信号灯を付けるように命じ、接近してくる船が船籍を確認しなかったときに、距離を取って明るくなるのを待ち、状況を判断するよう命じた。接近してきていたのはゲリエールであり、ブロークの船隊とはぐれた後に合流を目指していた。乗艦しているのはジェイムズ・リチャード・デイカーズ大佐であり、間もなくコンスティチューションが敵艦であると判断したが、7月18日の夜明けに他の4隻のイギリス艦を目撃した。デイカーズが送らせた信号には反応が無かった。デイカーズはロジャーズの全戦隊に包囲される可能性を恐れ、ゲリエールと他の艦船の間にできるだけ距離を取らせるようにもしたので、コンスティチューションを捉えるチャンスを逃してしまった。 明るくなり、気まぐれな風もたまたま吹き止んでしまったので、コンスティチューションはイギリス戦隊に船尾から追われることになった。コンスティチューションはボートを降ろさせて自艦を曳いて行かせ、一方ブロークは全艦船からボートを出させて、シャノンを曳かせた。ハルは離れていこうとする中で、10トンの飲料水を船外に捨てるよう命じた。これにも拘わらず、イギリス戦隊はコンスティチューションに近づき続けていた。コンスティチューションのチャールズ・モリス中尉が小錨の索を引っ張って移動する方法を提案した。このことでコンスティチューションはシャノンを引き離し始めた。右舷後部にハルが移動させた重砲4門から発砲することで、イギリス艦船が同じ策を使うことを妨げさせた。その日の午後遅く、風が再度吹き始め、コンスティチューションは敵からの距離を開いた。イギリス戦隊は夜の間に少し詰めてきたが、翌日コンスティチューションはさらに引き離した。追跡はさらに一昼夜続いたが、イギリス艦船は視界から消えた。 ハルはその逃亡に成功した後、ボストンに向かって飲料水を充填し、その後の8月2日にハリファックス沖とセントローレンス川河口でイギリス商船を襲撃し、次に南のバミューダに向かった。間もなくコンスティチューションはアメリカの私掠船ディケーターに追いつき、その船長から前日にイギリスのフリゲート艦1隻を取り逃がした話を聞いた。 一方ブロークは貴重な西インド諸島護送船団の後を追った。ロジャーズの戦隊もそれを探していると正しく推測していた。コンスティチューションを見失ってから3週間後、安全にイギリス海域に入った護送船団を見送り、ニューヨークに戻る準備をした。ゲリエールは艤装の修理を必要としていたのでハリファックスに向かうよう命令され出帆した。
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