コチャリャン、セルジ・サルキシャン関与説
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「アルメニア議会銃撃事件」の記事における「コチャリャン、セルジ・サルキシャン関与説」の解説
襲撃者らとコチャリャンを結び付ける確かな証拠は発見されなかったにもかかわらず、アルメニア国内の多くの政治家・研究者は、事件にコチャリャンと国家保安相であり次代大統領のセルジ・サルキシャン(ヴァズゲンの血縁ではない)が関与していたと信じている。しかし、コチャリャンは襲撃者らとの繋がりを指摘されながらも、政治家としての力を強め、やがて最も強力な国家指導者となっていった。 初代大統領であったレヴォン・テル=ペトロシャンは、事件の真犯人はコチャリャンとセルジ・サルキシャン、そして彼らにより築かれてきた「犯罪者の寡頭政治」のシステムである、と繰り返し主張している。2008年の大統領選挙(英語版)に際しても、テル=ペトロシャンは「セルジ・サルキシャンに投票するのはフナニアンに投票するのと同じことだ。セルジ・サルキシャンを選ぶ人間はデミルチャンとヴァズゲン・サルキシャンの神聖なる墓を冒瀆する人間だ」と明言した。事件から10周年の節目となる翌2009年には、テル=ペトロシャン率いる議会での反対派が、「アルメニア人の大部分によって事件の首謀者と考えられている」として、コチャリャンとセルジ・サルキシャンを殺人者と非難する声明を発している。その声明では、「テロリズムはこのように、体制側が権力にしがみ付き、自身を再生するための主要な方法となった」と結ばれている。 2013年3月にはアラム・サルキシャンが、コチャリャン、セルジ・サルキシャン両政権に対する多くの疑問を表明した。アラム・サルキシャンは、多くの疑問が未解決のまま残されたために、事件の法的処理が体制に対する公衆の不信を強めたとする。そして、全容の解明は国家にとって重要事項であり、「私が彼らの政権を非難するのは、彼らが事件に責任を負っているためではなく、事件の全容を解明していないためである」と主張している。また、2009年10月に事件記念碑が議会広場に設置された際、除幕式に出席したステパン・デミルチャン(カレンの息子)も、「現政権において事件の全容解明は不可能であるが、遅かれ早かれ、国家としての尊厳をかけて、全容は暴かれる。その時になって初めて我々は、この事件を克服することができるのである」と語っている。 元エレバン市長(英語版)のアルベルト・バゼヤン(英語版)は、事件はコチャリャンの権力を無制限で抑制不能なものにすることを狙って引き起こされたとの結論に至った、と2002年に語っている。そして、首謀者たちはヴァズゲン・サルキシャンとデミルチャンを物理的に排除することで、コチャリャンが大統領選に勝利する下地を作ったとも指摘した。
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