コチャバンバ水紛争での住民運動に対する侮辱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 15:11 UTC 版)
「雨さえも」の記事における「コチャバンバ水紛争での住民運動に対する侮辱」の解説
サン・アンドレス大学で政治哲学科長を務め、ボリビアの国連大使の経歴を持つラファエル・アルチョンド(Rafael Archondo)は、「(この映画が)あたかもコチャバンバの住民が共同井戸の接収と水道料金の値上げに反対して水道会社を追い出したことが水戦争であるかのように描いており、このような描き方は、今日のボリビア情勢へと続く一連の変革のきっかけとなった水戦争を、単なる利益擁護のための過激な暴動とみなして矮小化するものである」と批判している。その上でアルチョンドは「この作品では実際に水紛争すら描かれていないのにも関わらず植民地主義の罪をテーマにしているので、タイトルを『罪さえも』にした方が良い」と述べている 「映画はボリビアの『水戦争』をいかに語るのか」で本作品を分析した兒島峰は、以下の様に批判している。 『雨さえも』で描かれている水戦争とは、ボリビア人民に、従属し続けることを要求している。かつて黄金をスペイン人に差し出したのと同様に水を侵略者に差し出すように要求している。(中略)『雨さえも』は、500年前の侵略を正当化したうえで2000年の水戦争に顕在化した搾取を正当化し、水戦争に主体的に参加したはずのコチャバンバの人たちの運動を、北半球の人にとって理解できないインディオの暴動へと貶めている。 — 兒島峰、「映画はボリビアの『水戦争』をいかに語るのか」
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