コチャの国境の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 15:30 UTC 版)
「ハプスブルク占領下のセルビア (1788年-1792年)」の記事における「コチャの国境の反乱」の解説
セルビア義勇軍(英語版)はバナトで設立され、1787年以前のオーストリアとオスマン帝国間の戦争によりハプスブルク領に逃亡していたセルビア人5千人で構成された。彼らはセルビア解放とハプスブルク統治を望み、そのために戦った。主要な指揮官はオーストリアのミハイロ・ミハリェヴィチ(セルビア語版)少佐だった。義勇軍にはアレクサ・ネナドヴィチ(英語版)、スタンコ・アランバシッチ(セルビア語版)、そしてコチャ・アンジェルコヴィッチ(英語版)が従軍していた。オーストリア軍は1787年末と1788年初の2度、ベオグラードを奪取しようとしていたときにセルビア義勇軍を投入したが、いずれも失敗した。 オーストリアは1788年2月に開戦した時点で簡単に勝利する機会を失ってしまった。ロシアの準備が遅かったせいでオスマン軍がベオグラードに集結してしまったのであった。オーストリアはロシアがモルダヴィアで支援することに頼っていたが、それは1788年末のことであり、またヨーゼフ2世はオスマン軍と戦いたくないという様子だった。7月、オスマン軍がドナウ川を越えてオーストリア領バナトに進攻した。両軍とも物資不足に悩まされたほか、疫病の流行がオーストリア軍を苦しめた。さらに、5万人ものセルビア人難民がドナウ川を越えてやってきたため、オーストリア軍に兵站上の問題が生じてしまった>。これに対し、ヨーゼフ2世が8月中旬に20,400人をバナトに派遣した。
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