コチギリ反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 18:57 UTC 版)
1920年、デルスィム地域のコチギリ部族がケマリスト(ケマル・アタテュルク主義派)に対して反乱を起こす。アタテュルクによるローザンヌ条約締結の前であり、この時期ケマリストは占領軍に対抗するためにクルドに協力を求めていた。当時クルド人は自治派と独立派に割れており、自治派はケマリストに協力していた。反乱軍は何度かケマリスト軍を打ち破り、1920年11月に領主(agha)達により二度にわたり要求が出された。一度目の要求では、クルディスタンの自治に対する態度を明確にすることやクルド人政治犯の釈放など、そして二度目にはクルディスタンの独立を要求している。彼らの指すクルディスタンにはスンニー派・クルド、アレヴィー派・クルド、クルマンジー・クルド、ザザ・クルドが全て含まれていたが、他の地域からクルド人の支持は得られなかった。スンニー・クルドはこれをアレヴィー派の反乱と見ていたようである。また、領主(agha)達の中にはケマリズムを支持する者もいたとされている。このコチギリ反乱は翌年にはケマリストにより鎮圧された。そして1922年にはスルタン制が廃止され、ケマル・アタテュルクがトルコ共和国の初代大統領に就任する。1924年10月に憲法が公布さると公共の場、学校や出版でのクルド語の使用が禁止された。
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