コチェチョ虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/18 09:05 UTC 版)
「ドーバー (ニューハンプシャー州)」の記事における「コチェチョ虐殺」の解説
開拓者は多くの樹木を切って、ガリソンズと呼ばれた丸太小屋を建設した。町の人口と事業の中心はドーバー・ポイントから滝のあるコチェチョに移った。そこでは滝の落差34フィート (10.4 m) で工業用の動力を引き出すことができた。コチェチョとは、「急な泡を浮かべた水」を意味している。リチャード・ウォルドロン少佐がここに入植して、製材所と製粉所を建てた。 フィリップ王戦争が終わったときに、マサチューセッツ湾植民地の民兵から逃れてきた多くのインディアンが、ドーバーに住んでいたアベナキ族インディアンの所を退避地にした。マサチューセッツ湾植民地の民兵はウォルドロンにインディアンを攻撃して、避難民戦闘員を民兵隊の方に向けさせるよう命じた。ウォルドロンは激戦無しにインディアンを捕まえることができると考え、1676年9月7日、総勢約400人のインディアンを招いた。その半分は地元のインディアン、他の半分は民兵との戦闘に参加した避難民だった。これは策略であり、インディアンが発砲した後で、ウォルドロンは彼等を捕虜にした。このもてなしの場を破るように強制されたことに激しく抗議した避難民戦闘員と地元インディアンをウォルドロンはボストンに送り、そこでは7、8人が暴動の罪で有罪となり、処刑された。残りは「外国」、大半はバルバドスに奴隷として売却された。地元のインディアンは釈放されたが、当時インディアが価値を認めていた名誉ともてなしの規則を全て破ったウォルドロンの欺瞞を許すことは無かった。ウォルドロンは1683年にニューハンプシャーの首席判事に指名された。 13年が過ぎ、開拓者達がこの事件を忘れてしまったと考えている頃にウィリアム王戦争が起こり、新しく結成されたワバナキ連邦のインディアンが到着した。市民がその心配をウォルドロンに告げると、ウォルドロンは彼等に「あっちに行ってカボチャを植えてろ。インディアンの対応はする」と答えた。1689年6月27日、ガリソン家屋5軒のそれぞれに2人のインディアン女性が現れ、火の側で寝る許しを求めた。1軒を除く家屋がそれを許可した。翌日早朝のまだ暗い頃、その女性達がドアを開けて、密かに町に入ってきていたインディアン男性を中に入れた。ウォルドロンは抵抗したが、斧で気絶させられ、テーブルの上に置かれた。インディアン達は食事をした後で、ウォルドロンの腹をナイフで切り裂き、それぞれが「私の恨みを消した」と言った。家屋5、6軒が燃やされ、製粉所も焼かれた。町の全人口のちょうど4分の1にあたる52人の開拓者が捕獲され、あるいは殺された。 1723年8月と9月のラル神父戦争のときメイン州ソーコとこのドーバーをインディアンが襲撃した。
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