ケレンの是非とは? わかりやすく解説

ケレンの是非

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:57 UTC 版)

芦屋道満大内鑑」の記事における「ケレンの是非」の解説

現代本作ケレン切って切れない関係にあるが、これを演じ役者、とくに名優とされた役者否定的な見解は多い。 古くは、江戸時代女形大名跡芳澤あやめ葛の葉演じた際、客が期待していた口筆を行わず鳴物とともにいきなり障子に「恋しくば…」の歌が現れる演出採用した。これに驚いた劇場側の関係者がぜひとも口筆を演じてくれるよう頼み込むと、あやめは「葛の葉そのように演じるものではない。どうしても口筆を演じなければならないなら演目変える」として、翌日から、手を縛られ女性必死で口に筆をくわえて文字を書くシーンのある演目差し替えたことが伝えられている。 歌舞伎近代化立役者で「劇聖」と崇められる9代目市川團十郎は、歌舞伎役者見世物芸を演じタイプケレン宙乗り人形振り)を嫌悪していたことが有名で、葛の葉演じた公演明治24年3月歌舞伎座でも、本来なら曲書き演じ場面で上の句ふつうに文字書きその後火薬使った特殊効果とともに障子残り文字浮かび上がるような仕掛け用いたという。 明治時代から第2次世界大戦直後まで活躍した3代目中村梅玉は『梅玉芸談』の中で、多少自嘲混じっているとはいえ舌鋒鋭く次のように本作ケレン批判している。 この「機屋」の葛の葉という役もホン詰らないやり甲斐のない役で、別にことといって見せ場もありません。わずかに子別れ一くさりだけの芝居でございます。だから前の場では葛の葉姫と二役早変りにしてお客さまの恨を賑やかにしておき、奥になってからは前に申した障子曲書きでやっと役らしい役のように辻棲を合せているだけです ちなみに梅玉曲書きについては、評論家三宅周太郎は「鮮か」と評しているので、未熟な芸ゆえの負け惜しみというわけでなさそうである。 さらに3代目中村時蔵は、多くの上方系の役者演じるのを見てきた経験から、「ケレン味の強い芝居でして、そう芸の必要な役ではありません」と語っている。 以上のように、役者側ではケレン否定的に扱うことが多いのだが、一方観客側は見せ場として期待していたことがうかがわれる谷崎潤一郎まだ子供だった頃、たまたま九代目團十郎公演見ていて、その感想を後に随筆幼少時代』の中で次のように記している。 尤も母は、団十郎葛の葉が「恋ひしくば尋ね来てみよ」の歌を障子に記すのに、赤子抱えて、筆を口に銜えて書くといっていたので、それを楽しみにしていたのであったが、私の見た時は手で書いたので、それには少し失望した おそらくこれが観客側の率直な感想で、演者側の意識とのギャップ感じさせる

※この「ケレンの是非」の解説は、「芦屋道満大内鑑」の解説の一部です。
「ケレンの是非」を含む「芦屋道満大内鑑」の記事については、「芦屋道満大内鑑」の概要を参照ください。

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